第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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白湯の効験で俄かに酔いを醒ましたマリアンヌ嬢は、常の緩慢な起居が嘘のような兎の軽やかさで一同の(さきがけ)となって件の岬へと歩を進める。 酔っていれば怠惰で素面ならば性急(せっかち)だなんて、何れにしても迷惑なジキル博士だわ。 「それにしても、やっぱり殺風景な眺めよねえ・・・こんななら、月の海っていうのは、ぞっとしないわ。ああ、薄気味悪いこと! さあさあ、ちゃちゃっ、とディアーヌを成仏させちまおうじゃないの。 はい、ジュスティーヌ。エロイーズ。ぼやかない。あたくしの悪口はぜぇんぶ筒抜けよぉ? ほらほら、あたくし達も家令さんの御焚上の準備を手伝わなくっちゃ」 岬に至ったマリアンヌは四阿(あずまや)の跡に佇む一本の柱を掌で無遠慮に叩きながら、口喧しく朋輩達を差配する。 尊大な言動と御奉行気質(かたぎ)は醒酔を分かたぬ彼女の性情のようね。 「恐れ入ります、皆様。 それでは、この松毬と松葉、枯枝を積み重ねて参りましょう」 「ねえ馨さん、どんな風に積むのが効率的かな。薪の積み方って大切だろ? あ、マリアンヌ。こっちは良いよ。あんたは綾乃さんとランちゃんと段取りを宜しく。セリーヌ、燐寸(マッチ)点火器(ライタア)は持ってるかい?」 「ふふ、ジュスティーヌ、は、りきってる、ね。馨さん、よろしく、お願いします」 マリアンヌの一方的な物言いにこそ不服げながら、思いがけぬ余興に(あずか)るのが嬉しくて堪らない様子のジュスティーヌとエロイーズは、薪を抱えた馨に一目散に駆け寄り、あれこれと指示を仰いで焚火の準備に取り掛かった。 時折賑やかな歓声を上げつつ、予期せぬ余興を存分に満喫する風情は傍目にも微笑ましい。 「・・・それにしても、良い(たきぎ)を用意してましたね綾乃さん。 もしかして、最初から焚火の予定を?」 ジュスティーヌとエロイーズの監視に飽きたらず、遂には自身も焚火の準備に飛び込んだマリアンヌの背を私と見送った青嵐尼は、微苦笑を貼り付けたまま鼻を鳴らして斯く問うた。 「ええ。御斎(おとき)の後に、火を囲んで寛ぐのも一興かと思って。薪は藤宮子爵の植物園から頂いた牡丹の枯枝ですわ。きっと芳しくて綺麗な炎が踊ることでしょう」 若き尼僧が垣間見せた恐るべき野性への驚嘆を押し隠し(畏怖されるとも、畏怖すること勿れ─くだらない化生の意地ね)私は努めて婉やかに(いら)える。 「楽しみです。牡丹供養ってやつですよね、綾乃さん? しかし、ディアーヌさん、きっと煙に乗って月迄ひとっ飛びなんだろうなあ・・・此処は富士山よりも新高山よりも月世界に近い場所だっていうんだから。月の海の潮騒って聞こえるものかな」 すると青嵐尼は常の蛮カラな挙措には似付かぬ静かな憂いを湛えた眼差しで月の氷を見上げ、幽けき溜め息と共に詩情豊かな独白を溢す。 貝殻に耳を押し当てて一生懸命に海鳴りを聞こうと試みるように天上世界に耳をそばだてる尼君の雅びな心ばえへの敬意の故に、私は暫し沈黙を守る事とした。 玲瓏たる月天子の玉座の下は、万象を奇跡に変え、万の人の言の葉を詩に変える地上最後の聖域(アサイラム)なのね。きっと。
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