第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

65/66
前へ
/1263ページ
次へ
涸れ果てた海の(みぎわ)の藻塩焼き。 薪が爆ぜて舞い散った金色の火の粉が砂子となって天鵞絨の闇を彩る。 月光を駆逐するばかりに色彩を氾濫させる炎の祭儀の前にも、依然として月天(つき)は森厳なる沈黙を守り続けていた。 一心不乱に謡い続ける私達の声にも酷薄な月の氷を仰ぎ見ると、寧ろ、刻一刻と地球から遠ざかりゆく様にすら思い做される。 神さえも死に絶えた究竟の沙漠には、もはや祈りさえ届かないのかしら? セリーヌ嬢が嘆いた通り、私達は永劫に縮まらぬ距離を追い掛ける空しいアキレスでしかないのかしら? 我武者羅に謡を献じ続けるクルチザンヌたちは程無くして私の手綱から逃れ、幽玄な謡は先程までの見事な調和を喪って、何時しか熱狂的な革命歌の高吟の趣を帯び始めてしまった。 巴里しらずの巴里っ娘(パリジェンヌ)の時しらずの巴里祭。 自由の女神と手と手を取り合い烏天狗が踊り出す様な野放図ではあるけれど、誰一人として(なまじ)いな心持ちで祭儀に臨む者は居なかった。 神秘の成就を諦めた者は、誰一人として。 声量も、声調も、声色も、節回しも、何もかもが不揃いな斉唱(追走曲になりかけていないかしら?)だけれど、心だけは一つだった。 必ず、月世界に最も近い湊からディアーヌ嬢の御霊が月世界へと船出する瞬間は来る。衰えた心の弱さがそう仕向けぬ限り、人は神にも天魔にも屈する事はないのだ、と。 既に落ちた林檎によって引力を追認するしかない只人ではなく、枝から離れる瞬間の林檎を見て引力をするニュートンとなる未来を、私達は切望していた。 〝影傾きて明け方の あら名残り惜しの面影や 名残り惜しの面影 雲となり 影傾きて 雨となる 明け方の この光陰に 雲となり 雨となる 誘はれて この光陰に 月の都に 誘われて 入りたまふよそほひ 月の都に あら名残り惜しの面影や 入りたまふよそほひ 名残り惜しの面影 あら名残り惜しの面影や名残り惜しの面影〟 私の声、馨の声、青嵐尼の声、マリアンヌの声、ジュスティーヌの声、セリーヌの声、エロイーズの声。 幾度も(うたい)を繰り返し声をこき混ぜる内に、もはや誰が先走り誰が遅れているのかは不分明となってしまった。 此処に至っては如何にたる私にも統率は不可能だ。 意識を傾ければ忽ち狂を発するばかりの奇怪な不協和音と成り果てたにはこれきり耳を塞いで、私も頃合まで無心に謡う事にしよう。 斯く決心した刹那、私の耳を幽かな異音が擽った。
/1263ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4250人が本棚に入れています
本棚に追加