第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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木の葉のそよぎとも思えたけれど、此の廃園に緑樹は一株たりとも存在しない。 詞章を誤った誰かの声かしら? それとも、(しわぶき)? 共に焚火を囲む六人の声に耳を澄ませると、異音はなおも続き、しかもそれは、徐々に徐々に大きくなっている事に気付く。 誰か、私達の内の誰かが〝(とおる)〟の詞章とは異なる私語を囁いている様子である。 けれど、一同を見渡してみても、みな脇目もふらずに炎に対峙し謡に専心している。  読経で鍛えた喉を誇る青嵐尼。 可もなく不可もない技量の馨。 鐘の様に玲瓏たる声のマリアンヌ。 草原を渡る風の様に涼やかな声のジュスティーヌ。 謡そのものの技量は見事ながら雀の羽音よりも幽かな声のエロイーズ。 潰れてざらついた悪声が却って得もいわれぬ寂びた妙趣を醸し出すセリーヌ。 私語にかまける素振りを見せる者は誰もいない。 空耳だったようね。 〝忘れて 年を〟 いいえ。 確かに聞こえた。女人の声である。 〝経しものを〟 私は確かに聞いた。そして、また。 冷たくも爽やかなアルト。 〝またいにしへに 帰る波の 満つ 塩竈の浦人の〟 これは、一体誰の声かしら。 セリーヌではない。勿論、エロイーズでも。 すると青嵐尼?マリアンヌ? それとも、ジュスティーヌ? 〝今宵の月を陸奥の〟  否。 これは、誰の声でも有り得ない。 声の主は、私の他には知る由もない、終段以前の〝(とおる)〟の詞章を口ずさんでいるのだから。 〝千賀の浦廻も〟 次第に声量を増してゆく謎の声に皆が気付き、謡を絶やさぬ儘、目配せを交わして突如出来(しゅったい)した変事に色めき立つ。 〝遠き世に〟 あ、ディアーヌ! 声の正体を悟ったエロイーズが叫びを迸らせる。 不意を衝かれた私達の喉は俄かに凍てつき、謡の百万遍は突如として断ち切られた。 けれど、未だ得体の知れぬ声は途絶えず謡を唱え続けている。 青嵐尼、マリアンヌ、ジュスティーヌ。 彼女達は驚愕に見開いた目で互いに見詰め合い、不意に訪れた神秘に戦慄(おのの)いている。 しかし。 月の女神の姉妹なるセリーヌを見れば─ 只一人、ざらざらと雑音の混じる声で〝融〟を謡い続けている。 やはり、空耳だったのかしら。 奇跡を待ち望む焦燥の悪戯が、何故にかセリーヌの声を他人─それも、故人の声と紛わせたのだろうか。 ・・・いいえ。これは錯誤などではなかった。 セリーヌの声だけではない。 の声が聞こえるのである。 セリーヌの許から、もう一人の声が、確かに。 セリーヌを見れば、彼女は定かならぬ意識でふらりふらりと長身を揺らしながら唇を盛んに動かし続けている。 一度に二つのまったく異なる声を発し、長いドレスの裾からだらりと垂れる爪先を地面から三(センチ)ほど浮遊させながら。 黒い面紗(ヴェール)の奥から聞こえる二つの声は、やがて厳かな斉唱となり、月の沙漠に潮騒の如く響き渡った。 〝影かげ傾きてかたぶきて 明あけが方たの の く雲もととなり あ雨となる(めとなる) この光陰に誘はれて(このこういんにさそわれて) 月の都に(つきのみやこに) 入りたまふよそほひ(いりたまうよそおい) あら名残り惜しの面影や(あらなごりおしのおもかげや) 名残り惜しの面影(なごりおしのおもかげ)〟 風なくして揺らめく牡丹焚火の煙を羽衣の様に身に纏わせ重力の縛めを逃れた巫女は崇拝する女神と共に空に身を揺蕩わせている。 私達は、渇望し続けた神秘の成就を確信した。 朋輩たちの見込み通り、つきぐるいの少女は御経よりも愛する能を己が葬送曲に所望していたのだ。 二十世紀のかぐや姫は遂に、永遠に遠ざかり続ける三糎を飛び越えアキレスを超越する。 天つ舟は今まさに、月世界渡航へ出帆したのである。   謡を借りた告別を高らかな汽笛に代えて。 「ったく、最後まで驚かせやがって。 さっさと行きなディアーヌ。念願の月旅行なんだろ。Bon Voyage!」 両頬を叩いて唇の震えを叱したジュスティーヌが威勢よく呼び掛けたのを潮に、三鞭酒の泡の如く一どきに餞の言葉が弾ける。 Bon Voyage,Diane! 第二十五章・了
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