第二十六章 玉匣

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帰去来兮(かえりなん、いざ)〟 と言いたい所だけれど、主催者の面目を慮れば早々の退場も躊躇われる。 ・・・身を寄せるべき聖域(アサイラム)で時を過ごそう。安逸な孤独に慰藉を求めて。 この広大な庭園の何処かには、きっと然るべき四阿(あずまや)か、密事にうってつけの木下陰に椅子(ベンチ)が設えられている筈。 薔薇の香を孕んだ夜風がとても心地好い。 ふと、空を仰ぐ。 蜉蝣の翅の様に軽い絹の支那服でなら、瀝青めいた此の夜の水底から浮上することすら叶うように思い做される。 刺繍の靴の歩調に合わせて揺れる裾が呼び覚ますのは、海中に揺蕩う長い尾鰭の心象。 とろりと肌に沿って流れる滑らかな仏蘭西絹の()に犇めく金色の吉祥文様は─宛ら煌めく鱗。 今宵の私は、月下の人魚。 憂いの岩礁を離れて自由な漆黒の海原を泳ぎ回るのだ。渦巻くいろくずの歌に煩わされぬ遥けき常世の海域を目指して。 「よう、綾乃さん。久し振りです。 Escapeですか?ひょっとしてRendez-vous?いや、んなこたぁ聞くもんじゃないな。失敬」 精神の阿片丁幾(ローダナム)として享楽する気散じの甘やかな空想を妨げたのは聞き慣れた声。 視線を遣れば、夜闇にも眩い皓歯を閃かせて人懐こい笑みを湛えて此方に歩み寄ってくる隻眼の男の姿。 彼こそは大陸浪人の多賀輝次郎。 我が交友録のうち最も得体の知れぬ無頼漢にして、最も愛想の良い快男児である。 ※帰去来兮:陶淵明の漢詩〝帰去来辞〟の冒頭に因む。
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