第二十六章 玉匣

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否。 彼の隻眼に宿るのは、澄明なる輝き。 海の彼方の異国(とつくに)に描く回天の夢を物語るとき、この壮士の瞳に宿る情熱の炎が確かに爛然と燃え盛っていた。 そして、その視線の(きっさき)は真っ向から私の瞳に擬せられている。 彼の〝お願い〟は、私をうんざりさせる慈愛の押買を図る(たぐい)のものではないのかも知れない。 「・・・聞いて差し上げるだけなら」 胸を擽る感興の赴く儘、私は言葉の続きを促す。 「有難う! 綾乃さん!僕と賭けをしてくれませんか? 〝負けた方は勝った方の言うことを何でもきく〟って条件で。 お願いだ。僕には、どうしても叶えなきゃならん差し迫った望みがあるんだ」 すると多賀さんは季節外れの向日葵の様な破顔一笑の後、殆ど最敬礼に等しい角度まで深々と頭を垂れつつ願意を明かした。 ・・・それにしても、酷く迂遠なお願いである。 多賀さんが〝差し迫った望み〟そのものを求めなかったのは、きっとそれが途方もなく過大な到底許容し難い願いである証。 大陸の夜闇を闊歩する極めて胡乱な人物ながら、多賀輝次郎は交誼に於ける礼節を弁えぬ男ではない。 彼が無頼漢にもかかわらず貴顕たちの〝友人〟として社交界に出入りが叶うのは、美しい笑顔と人懐こさのみならず、斯くした折り目正しさが愛されたが故でもある。 彼の世にも奇特な廉恥心が、斯くも奇妙な請願を為さしめたのだ。 「それは、私でなくてはいけないのかしら?」 〝南国の薔薇〟の旋律に合わせて揺れる影法師を視線で辿れば、舞踏室は名だたる富豪を列ねた絢爛豪華な回転木馬(メリーゴーラウンド)。 白馬に黒馬に栗毛馬に鹿毛馬。そしておまけに竃馬。 賭けの相手なら選り取り見取り。それでもなお私を選ぶ理由があるというのだろうか。 「そりゃあ勿論!どうしても綾乃さんじゃなくちゃ駄目なんだ。是が非でも。他の誰でもない綾乃さんにしか頼めない。だから大問題なんですよ。日本男児、多賀輝次郎一生に一度のお願いだ!頼みます!」 どうしても、私でなくては駄目。 簡明にして猛烈なる多賀さんの応答は、どんな華麗な恋文よりも甘美な酩酊に私を誘った。 少しも浪漫的ではない、熱烈な懇願。 平生の私なら意地悪く突き返したかもしれない直截な言の葉が、神威を帯びた征矢の如くに私の心を射抜いたのである。   「ふふ・・・いいわ。()りましょう。 貴方の情熱を称えて。種目は何にしましょうか。骨牌(トランプ)?チェス?それとも碁?」 低頭のあまり殆ど身体を二つに折り畳まんばかりの滑稽な姿を暫く眺めた後、私は眼前の愛すべき快男児に微笑みを以て諾意を示してみせた。 道徳の軛から自由たり得ぬ、この極めて小市民的な〝悪党〟には大それた真似など何も出来はしないだろう。 ・・・彼の〝大望〟の正体を知れば、きっと失望を味わうだけ。 それでも私は敢えて(もだ)した儘、儚く(めずら)かな危機の夢を存分に享楽することにした(実は沈黙こそが人魚の天分だというのは、本当かしら?) 他ならぬ私自身を呼び求めてくれた多賀さんの心ばえが、遥けき南海の太陽の様に心地好かったから。 ※南国の薔薇:ヨハン・シュトラウス2世作曲のワルツの題名。 沈黙こそが人魚の~:プラハ出身の作家フランツ・カフカは〝セイレーンたちの沈黙〟に於いて、セイレーンを魔性の歌ではなく沈黙によって船人たちを破滅させる魔物として描いた。 元来セイレーンは半人半鳥の魔物だったが、後世人魚のようなイメージに変化していった。
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