第二十六章 玉匣

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・・・それなら、バンコックは? 天を摩す壮麗な仏塔。(かさね)の如く幾重にも層をなす寺院の切妻屋根。滔々と流れる伽羅色のメナム川。西洋との混淆様式による白亜と金色の瀟洒な王宮。  暁の寺(ワット・アルン)を照らす皓月(つき)よりもなお清らけき金剛石の王城。或いは地に延べ広げた孔雀の羽の様な虹色に輝く仏都。 バンコックは真名に違わぬ美しさを以て顕界に浄土の姿を写し出し、渦巻き睦みあう喧騒と読経を迦陵頻伽の歌となし瑠璃光の栄華を自ら讃える。 伽藍を飾る幾千幾万の陶片画の如く美と技巧を極めた真名に違わず、華麗な偉容を示し続けている。 帚星の様に脳裏に閃いたのは、一つの疑念。 名は実体の上に漂う蜉蝣ではなく、寧ろ名こそが実体の種子に他ならないのではないかしら? もしも長大な讃歌そのものの雅名が、かの玉敷きの都を物質界に顕現せしめる触媒ならば。 絢爛を極めた尊号を剥奪されたとき、虹を織り成す孔雀色のバンコックは一面の荒野を残し須臾(しゅゆ)にして泡と消え果てるだろう。   玉匣(たまくしげ)に蔵された虚無もまた、煌めきたつ表装の祭文によって確固たる存在に変化を遂げ得るのならば、私も多賀さんの捧げる数知れぬ美名の継ぎはぎに荘厳される事で女神の似姿を実体として獲得するのだろうか。 宛ら、真作の箱書によって宝器が宝器として聖別されるかの如くに。 ※メナム川:正しくはチャオプラヤー川。メナムとは川の意だが、外国人が現地でメナム・チャオプラヤー(チャオプラヤー川)と呼ばれる川の名をメナムであると誤解した事から広まってしまった。
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