第二十六章 玉匣

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「そうだなあ・・・骨牌じゃ綾乃さんの方に勝ち目は無いし、囲碁と双六じゃ僕の方に勝ち目が無い。出来れば技量の差が表れにくい単純な種目が良いなあ」 今に〝長久命の長助〟と口走るに違いない(流石に長助は不可ないわ)と多賀輝次郎氏の長口上を静観していたけれど、その懸念は全くの杞憂に終わった。 脳髄の中に蔵された語彙が尽きたらしい隻眼の無頼漢は、息を弾ませながら賭けの種目について斯く提議に及んだ。 「それなら〝(つみかえ)〟はどうかしら? 略式の双六なのだけれど、本双六に比べたらずっと単純よ。勝敗は賽子(さい)任せ。審判は神様の御機嫌次第」 「へえ、賽子任せ。そりゃ良いや! 神様に審判されるなら本望ですよ。神様を審判するなら御免被りたいが。僕ぁパリスって奴にだけはなりたくねえ」 互いの技量に懸隔の無い遊戯(ゲーム)を選ぶのが困難なら、たとえ面白味に欠けたとしても運任せの遊戯を選ぶのが適当だろう。 ふと思い付く儘に提示した〝(つみかえ)〟が意に適った多賀さんは莞爾として白すぎる歯を輝かせた。 ジョン・テニエルの挿絵のCheshier catにそっくりの愛嬌と胡散臭さに満ちた彼の笑顔を直視し続けるのは、どうにも不安な心持ちになる(それに、無性に両頬を思い切り引っ張って差し上げたくなるわ) 不意に、嗜虐心の甘い疼きを胸の奥に覚えた私は一寸(ちょっと)だけ視線を逸らす。  「決まりね。日程は三日後の午後二時。私の屋敷にいらっしゃい。生憎、今月はもう予定で一杯なのよ」 明日は句会。明後日は茶席。それに・・・ ハンドバッグから取り出した革表紙の手帳を開いてみても、今月は三日後と四日後の他に空隙は無かった。 「三日後・・・三日後か。よし、分かりました。貴重な時間をどうも有難う御座います。済みませんが、宜しく頼みます」 私の示した期日に多賀さんは暫時思案を巡らせた後、花火の様な快諾と共に右手を差し出す。 商談の成立に漕ぎ着けた亜米利加人そのものの陽気な所作は多賀さんに纏わりつく胡乱さを拭い去るどころか、その気配を一層色濃く際立たせるばかりだった。 「あっ!多賀輝次郎! 此処で会ったが百年目!上海での恨み、此処で晴らしてやる!」 「おい!多賀輝次郎だ!奉天ではよくも先生を!」 「おのれ、生きていたか多賀輝次郎! 今日こそ貴様を立派な洋灰(セメント)にしてやるぞ!」 決闘前のプーシキンの様な悠然たる心持ちで私が彼と握手を交わさんとした、正にその瞬間。 月影を裂いて三つの怒声が響き渡った。 声の(かた)を見遣ると、舞踏室から此方へ大股で歩を進めてくる三人の紳士の姿。 突如巻き起こった椿事に楽団はぴたりと演奏の手を止め、(たけなわ)にして中断した円舞曲(ワルツ)に代わって客人達の響動(どよ)めきが波音の様に舞踏室を満たした。 ※パリス:ギリシア神話の人物。トロイア王プリアモスの子。ヘラ、アテナ、アフロディテの三女神が最も美しい女神は誰かを争ったとき審判を命じられ〝自分を選べば世界一の美女と結婚させる〟と約束したアフロディテを勝たせた。 かくしてパリスは女神の助力を得て世界一の美女スパルタ王妃ヘレネをトロイアに連れ帰ったが、これがトロイア戦争の引き金となり、トロイアは滅亡する。 ジョン・テニエル:イギリスの挿絵画家、風刺画家。不思議の国のアリスの挿絵で知られる。1893年、勲爵士に叙される。 Cheshier cat:チェシャ猫。不思議の国のアリスのキャラクター。歯を剥き出してニヤニヤ笑う不思議な猫。
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