第二十六章 玉匣

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「済みません綾乃さん。愈々まずい展開になった。こりゃあ〝曾我の対面〟なんてもんじゃねえ。討手は三人だし、談判の余地も武士の情けも無さそうだ。僕ぁこれから本気でEscapeさせて貰います。どうか約束の件は、よしなに!」 合掌して深々と頭を垂れた多賀さんは、滔々たる闇の海原の中へと一目散に駆け出さんとする。 迫り来る追手の恐怖と友人への配慮とに急き立てられながら、彼は瞬時に然るべき退路を見極めたらしい。 けれど、今更多賀さんが遁走したところで、私は一層煩わしさを増した迷惑の渦中に独り取り残されるだけ。 ・・・それなら一層(いっそ)、一緒にEscapeしてしまおう。 憂鬱に終始するかと思われた今宵の舞踏会に、愉快な乱調をもたらしてくれた我が友への感謝の証に。 意を決した刹那、小節の半ばで凍てついた儘の〝南国の薔薇〟の演奏が唐突に再開された。 早春の渓谷を勢いよく駆け下る雪融け水の様に流れ出す旋律に合わせ、舞手らも再び優雅な足取(ステップ)を踏む。 一時は満場の注目を集めた三人の紳商の憤激に関心を示す者は、最早誰一人としていない。 舞踏会に集う人々にとって、澤島氏らの〝討入り〟は観覧に値する戯曲とは見做されなかったのである。 新参の〝友人〟に過ぎない彼らの位置は、貴顕たちの眼鏡にかなう美しき悲劇の主演たるには不足していたし、何より家来同然の身分の者と同じ土俵で争わんとする醜態は驕慢な観客の失望を買うのに十分だった。 冷酷なる貴族的感性の許に於いては、眼前で流れる賤夫(しずのお)の鮮血など、エウリピデスの一言にも()かぬのである。 維納風円舞曲(ウィンナ・ワルツ)の余情馥郁たる調べは迫る澤島氏らの怒声をも塗り潰し、宛ら彼らの激情を黙殺せんとする満場の意志を表明するかの様に思い做された。 ※曾我の対面:歌舞伎脚本の一つ。 父の仇討ちを志す曾我兄弟が、仇の工藤祐経と対面を果たす場面を描く。 祐経は、頼朝の富士の巻狩の奉行の大任を果たした後に兄弟に討たれることを約束する。 エウリピデス:古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人。彼の作品のうち〝メデイア〟は三島由紀夫〝獅子〟の原案になった作品である。
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