第二十六章 玉匣

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「多賀さん、手を取って。そして左腕でしっかりと私に掴まりなさい」  私は多賀さんの耳許で斯く囁いて、ひしと手を取る。 「え?ちょっと、綾乃さん?一体何ですか? いきなり何をしようって言うんです? 僕は早く逃げなきゃならないんだけどなあ。掴まるって?」 「Escape─或いは今宵のLast Waltzよ。踊ってくださるでしょう?」 (まなこ)に走る赤い稲妻が見分けられる程の距離にまで接近した三人への恐れのあまり舌を縺れさせながら、多賀さんは問いを重ねる。 私の瞳を一秒でも見詰めてみれば私の真意は澱みなく理解出来た筈なのに、多賀さんは追手と行手とを右顧左眄(とみこうみ)するばかりだった。 「焦れったい人ね。早くなさい。さもないと貴方、鞦韆(ぶらんこ)を演じる事になるわよ」 「ええい南無三!何だかよく分からんが綾乃さん!Escapeだ!巻き込んじまって済みませんが兎にも角にもEscapeしましょう!」 伝え聞く華々しき悪名にまるで似付かぬ逡巡に業を煮やした私が決心を迫ると、遂に意を決した大陸浪人は支那服の背に確と左腕を回した(上海仕込みの円舞曲(ワルツ)の洗練された技量を窺わせる所作だわ) これなら、垂直落下の心配は不要ね。 「決して手を離さないで。そして、口を結んでいて頂戴。舌を噛んでしまうわ」 〝帰去来兮(かえりなん、いざ)〟 私は密かに呟いて、刺繍の靴の爪先で、とん、と地面を蹴る。 跳躍。 ひとひらの羽毛の様に、私の身体は忽ちにして空高く、南条邸の屋根の上へと舞い上がる。 仰ぎ見る月は、みるみる大きさを増して目前へと迫り来る。彼方に広がるのは、燦然たる帝都東京のネオンの海原。 重力の鳥黐を引き千切り、軽やかに浮遊する感覚が心地好い。 化生(けしょう)の力に任せた遥けき中空へのEscape 地上を見れば、まさか頭上に逃れたとは思いもよらず、突如として視界から消失した二人の影を探し求める澤島氏一行の狼狽する姿。 「優雅な逃避行でしょう?夜間飛行(ヴォル・ド・ニュイ)だなんて。お気に召して?」 感興に弾む心の赴く儘に私は斯く尋ねるも、肝心の多賀さんは震える歯をがちがちと鳴らしながら、無言で二度頷いてみせた。 恐れ知らずの壮士、多賀輝次郎の秘めたる泣き所は他ならぬ高所嫌いだったのである。
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