第二十六章 玉匣

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「ええ、勿論。 丁稚奉公から頭角を現し、主家の婿養子に迎えられるや一代にして播州の富豪、牧岡家を関西有数の財閥に育て上げた財界の雄。立志伝中の人ね。  けれど、どうして牧岡さんの家宝探しの為に私が人形になる必要があって?」 きっと牧岡氏が望んでいるのは、阪神間に進出し名門に伍するに至った己が家の格式を荘厳(しょうごん)すべき、貴顕ゆかりの書画骨董の筈。 それなら、態々食客の多賀さんが奔走する程の御家の一大事だとはとても思えないし、私がコッペリアの真似事をしなくてはならない理由も分からない。 私が疑念を投げ掛けると、隻眼の壮士は〝よくぞ尋ねてくれた〟と言わんばかりの風情で極めて満足げに頷いてみせ、少し熱を帯びた語調で滔々たる陳述を再開する。 「そう。そうなんですよ。此処からが本題なんです。 手紙でそう頼むだけなら何も問題は無かったんだが、牧岡さんは、棺みたいに馬鹿でかい綺麗な玉匣(はこ)を送って寄越して〝この玉匣に納めるに相応しい家宝を〟と御所望でね。書画や古文書の類なら幾らでも御文庫に眠っているんだが。 岸駒の掛軸なんか見事なもんですよ。ありゃ僕も欲しいな。 ・・・兎も角、僕も殿様も靏見家の使用人らも皆これにはたまげちまった。正直、牧岡さんの正気を疑いましたよ。 だが、牧岡さんは靍見子爵家の大恩人。靍見子爵家が華族として立派な体面を保てるのは、牧岡家の援助あってこそ。迷惑千万なお願いでも無下に断る訳にもいかん。 かと言って、そんな馬鹿でかい宝物なんざ靍見家に有る筈も無けりゃ、新たに買い求める資力も無い。 それで思い付いた苦肉の策が〝生人形〟って訳です。牧岡さんが靍見家にいらっしゃる日、牧岡さんが滞在する時間だけ綾乃さんに〝宝物の生人形〟を演じて欲しいんです。 ああ、ご心配なく!玉匣は後で牧岡さんのお宅に送る約束ですから。 大丈夫。後始末も全部考えてあります。殿様も牧岡さんも面目を保ち、且つ、どちらも幸せに済むよう手を尽くします。勿論、綾乃さんには絶対に迷惑をお掛けする事はしません。 綾乃さん、僕ぁこれでも青幇と紅幇の連中を一緒に飲茶の卓に着かしめた男です。その時に比べりゃあこれしき朝飯前ですよ」 ※岸駒(がんく):江戸時代中期~後期に京都で活躍した絵師。リアルな虎を描いた事で名高い。彼が迫力あふれる虎の姿を描けた秘訣は、虎の頭骨や四肢を手に入れ、虎の肉体を精密に研究できたことにある。 有栖川宮家の篤い信任を得て朝廷より官位を授けられ、最終的に従五位下・越前守にまで昇進を遂げた。
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