第二十六章 玉匣

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「頭を空にするのは無理よ。 人形自身が思惟から自由な様に見えたとしても、本当に思惟を抛擲してしまえば、きっと美しい人形になりきる事は叶わないでしょう。眠り込んだ女優を舞台に据えた所で、眠り姫の役が務まると思って? ・・・それに、寝言で貴方の脚本を台無しにしては不可ないもの」 人形を演じる事に芝居気を擽られた私に対し、依頼主の多賀さん自身は、まるで人形への理解も関心も欠落しているらしい。 「そういうもんですかね?」 脚本家の瓦智と不心得を窘めるべく言葉を尽くしたものの、当の本人は〝綾乃さんは泉鏡花の伯爵夫人みたいな事を仰有るんだなあ〟なぞと呟いたのち、酷く能天気な問いを投げ掛ける。 「目の瞑り方、睫毛の風情、唇の綻び具合・・・身体は硬直させ過ぎてはならず、弛緩させ過ぎてもならない。 指先から爪先まで・・・いいえ、髪の毛の一本一本にまで感覚を張り巡らせ、総身で〝見られる事〟を意識しなければ、人形らしくはなれないわ。もしかすると人形の美しさは、人形自身がその妙諦を会得している事によって紡ぎ出されているのではないかしら。 時の川に身を委ねた沈黙せる誘惑者(ローレライ)。それが人形というの在り方なのかも知れないわね。 ・・・まあ、多賀さん。貴方とても酷い形相になっているわ。御免なさいね、私の煩瑣哲学は此処までにしましょう。 ところで、肝心の牧岡さんがいらっしゃるのは何時なのかしら? 今から予定を空けておくわ」 眉間に皺を寄せて首を傾げる大陸浪人へ、人形を演ずるにあたっての所信と演技方針を語り聞かせんとしたけれど、私が言葉を重ねるごとに彼の眉間に刻まれる皺の数も御頭(おつむ)の傾きも増す一方。 懇切な諭旨を試みても、多賀さんにとっては徒な苦行となるだけの様ね。 嘆息と共に投了した私がの日取りを尋ねると、多賀さんはがばり、と頭を垂れて今にも腹を切りそうな声で驚愕すべき(そして憤慨するに足る)事実を告白した。 「はい。それが、実はですね・・・大変恐縮なんですが、明日の午前十時なんです。 申し訳ない!だが、確か綾乃さん、明日の御予定は空いていましたよね? 済みません、ですが、どうしてもこればかりは綾乃さんにしかお願い出来ないものですから、どうか何卒!」 〝明日の午前十時〟 多賀さんの発言は思考をすっかり漂白し尽くし、紡ぐべき言葉を喪った私は、暫時沈黙を強いられる事となった。
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