第二十六章 玉匣

21/49
前へ
/1265ページ
次へ
心の海が幾星霜をかけて磨き上げた矜りの故に、私は不様な叫びを迸らせる事はしなかったけれど、よりにもよって明日が本番当日だなんて余りにも唐突過ぎる。   「大亜細亜の何処を探したって、人形さんみたいな別嬪さんで、やんごとなき筋にも通じている口の固い(ひと)なんて綾乃さんだけなんです。綾乃さんにしか頼めないんです。 どうか、靍見子爵家の一大事を救って下さい!殿様の面目の為に、どうか!男、多賀輝次郎、一世一代一生に一度のお願いです!どうか助けて下さい、綾乃さん!」 絶句する私に多賀さんは、頭を深々と垂れて只管(ひたすら)熱烈な懇請を雨霰と浴びせ掛けてくる。 靍見子爵家の一大事も、靍見子爵自身の面目も私には何の義理も無い徒事(あだごと)に他ならない。 それに何より、人形になりきる為の十分な準備が調えられない内に舞台に引き出されるのは、甚だ不本意である。 自分の力量の故にではなく、舞台監督の不首尾の故に三文女優の謗りを受けるのは耐え難い屈辱だ。 多賀輝次郎との賭けに負けた私に今更異を唱える権利が無い事なんて理解しているけれど、この一事だけは、どうしても道理で割り切る事は叶わなかった。 ・・・けれど、私は一度交わした約束を違える女ではない。 それに〝私だけにしか頼めない〟という切望ほど、今の私を陶酔させるに足る貢物は此の世に存在しない。 帝都の上流社会に犇めく綺羅星の如き貴顕達の誰一人として、彼ほどの情熱を以て願いを訴えた者はいなかった。 仏蘭西の小説も、独逸詩も、王朝の秀歌も、彼らが親昵した筈の教養など微塵も窺い知れない蝿の羽音にも劣る陳腐な阿諛追従を並べる者ばかり。 矢張り、多賀さんのに付き合ったのは間違いではなかったのだ。 私の胸の奥の海域に立ち籠める藍鼠色(あいねずいろ)の霧は吹き払われ、煌めき立つ幾千の金波が一どきに凱歌をあげる。 彼の極めて真率な請願は、凍てついた筈の私の心に感興の炎を灯らせ、目眩く冒険へと駆り立てるのに十分であった。 海風が吹き抜けたのだ(ル・ヴァン・ス・レーヴ)! ─ならば私は。 「顔をお上げなさい、多賀さん。 流石に吃驚はしたけれど、今更文句を言う積もりなんて無いわ。約束ですもの。それに、私は随分退屈していたのよ、此頃。 丁度良い退屈しのぎになりそうね。悪戯は大好きよ、私も」 意地も沽券もかなぐり捨てて平身低頭する壮士の言葉に、私は花唇(くちびる)を綻ばせ鷹揚に(いら)えてみせる。 上等の髪油を付けた黒々とした頭を、がばり、と跳ね上げた多賀さんの感涙に潤んだ大きな隻眼は銀砂子を振り撒いた様に燦爛とした。 「さあ、そうと決まれば善は急げよ。今日から靍見さんの御宅にお邪魔させて頂くわ。今夜の内には皆で舞台を万全に仕上げましょう。 多賀さん、悪いけれど、支度が調うまで暫くお待ちなさい。御要望があれば何なりと馨に申し付けて頂戴」 靍見子爵邸は、子爵と家令と食客の多賀さんを除けば女人ばかりが住まう女人入眼の女護国。一晩身を寄せるのに何ら不都合はあるまい。 私は応接間の隅に侍す従僕に多賀さんの応接を委ね、旅支度のため席を立った。 軽やかに空を舞う、鴎の翼を得た心地で。 〝試みねばならぬ〟だなんて詩句は、物憂さに満ちた私の(ヴィ)に於いて何の慰めにもなる気がしなかったけれど、一陣の風のVocaliseが時には生を夢見る希望になり得るのかも知れないと、此の瞬間だけは信じられる気がしたわ。
/1265ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4250人が本棚に入れています
本棚に追加