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「へえ、あの有坂総一郎がオペラを!
これは見物だなあ」
籐椅子に身を委ね、テーブルの上に足を投げ出した形で寛(くつろ)ぐ中年男は、さも愉快げに哄笑した。
「そうでしょう?
彼の作品を世に問う役目を是非とも貴方にも担って欲しいのだけれど」
大輪の薔薇を描いた黒地の錦紗縮緬の着物よりもなお艶めく自慢の長い黒髪を弄いながら、私は中年男こと国立劇場の支配人-中川巌(なかがわ いわお)に件の歌劇の上演を持ちかける。
本朝の芸術界に於いて彼が蜘蛛の巣の様に張り巡らせた人脈は金の卵を生む鵞鳥などよりも遥かに貴重で利用価値に富む資産であるから、その恩恵に浴する方策を求めぬ法はない。
「・・・しかし、彼の作品と言えば問題作ばかりだからなあ」
言葉巧みに功名心を擽りながら巌を誘導せんと試みるも、彼は眉間に皺を寄せて渋面を拵えて啜るばかりであり、色よい返答は中々引き出せない。
さりとて、こうした対応を巌の頑迷と蒙昧の発露として糾す事が出来ないのも事実である。
有坂の先鋭的な表現は一部の人々からは高い評価を受けているものの、その他大多数の識者は酷評の荊冠と冷笑の緋衣を献じるばかりである、というのが偽らざる実情であったから、斯様な問題児の歌劇への投資などという敢えて白刃を踏む様な真似をするのを躊躇うのも無理からぬことではあった。
劇場が他ならぬ経済の世界に属する以上、不羈の精神を以て俗世への反抗を試みる芸術家の精神を持ち込む事は出来ない。
芸術を扱いながら芸術の僕(しもべ)たり得ない存在というのは、光栄ある尊厳を真綿で絞め殺された、さながら牙を悉く抜かれた狼や翼の萎えた鳥も同じではないかしら、と憤懣を抱いたものの、近代の経済構造の批判を並べ立てども宿願が叶う訳ではないし、耳をそばだてた特高に社会主義者の疑いをかけられては堪らないから、それを口にすることはしなかった。
しかるに、この儘では幾ら時を費やせども巌を説得する事は適わないであろう。
すると、私は伊太利のマキアヴェッリが述べる所の〝狐の知恵〟ではなく〝獅子の力強さ〟を行使しなければ勝利の果実を得る事は出来ないであろう。
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