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「如何にも。故に、無聊が綾乃様にとって黒死病よりも厭わしい病である訳で御座いますね」
苦笑を浮かべながら馨は、ロココ調の装飾の為された豪奢な卓の上に置かれた蓄音機を弄り始めた。
「・・・さりとて、問答を重ねど埒が開く道理はありません。一先ず、綾乃様お気に入りの有坂総一郎の曲でも如何でしょう」
程無くして、蓄音機から美しい音楽が紡ぎ出される。聴く者のロマンチシズムを刺激する、優美で情熱的な調べ。
壮麗で、ただひたすらに美しく、魂をいと高らかなる至高天の輝きの内へと誘う旋律。
「・・・やはり、当世のリヒャルト・ワグネルの誉れは有坂総一郎にこそ相応しいわね。彼は独逸の浪漫主義の精髄と本朝の精神の結合が生んだ天才だわ」
私は感嘆と共に零れた惜しみない賛辞を献じ、遥か異国の麻薬に似た激しい恍惚感に浸りながら、目を閉じた。
有坂 総一郎。
彼は私が深く敬愛する音楽家の一人である。
時代遅れの浪漫主義を掲げる頑迷な老作曲家。
彼の楽曲は一部の識者からこそ高い評価を受けているが、その他大多数からは
〝音楽の何たるかを知らぬ〟やら〝聴くに耐えぬ〟
などの酷評を受けていた。しかしながら、彼の才能を評価する一部の中には十九世紀のワグネル宜しく熱狂的な崇拝者もいる程であり、斯く言う私もその崇拝者の一人である。
「・・・そうだわ、近いうちに有坂を屋敷に招きましょう」
私の脳裏に或る一つの考えが閃(ひらめ)いた。
敬愛する彼の音楽家を我が屋敷に招くのである。
「有坂とは、あの有坂総一郎で御座いますか?」
「そうよ。彼を晩餐会に招くの。
私が崇拝する、彼の作曲家を。
・・・さあ、無聊の慰みは見付かったわ。馨、早速で悪いのだけれど晩餐の献立を立案して頂戴」
俄かに憂鬱の黒雲が霧散し光の兆した我が胸は今や感興に駆られている。黒絹の着物の袂を揺らして手を鳴らし、私は馨に斯く命ずる。
やがて部屋の奥からキリキリという静かな発条(ぜんまい)の音を伴い、文箱と手紙を携えた仏蘭西(フランス)製の自動人形が私の元へゆっくりと歩み寄ってきた。
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