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「ようこそ。お目にかかれて光栄ですわ有坂先生」
約束の日の夜、午後八時三十分。
私は対面のソファに腰を下ろした白い背広を纏(まと)う老紳士-有坂総一郎を出来る限り優雅な微笑をこしらえて迎えた。
「いえいえ、こちらこそお招き頂き礼を言わねばなりますまい・・・」
有坂は深く渋味のある重低音で謹厳に礼を述べると猛禽を連想させる鋭い目の端で辺りを見回した。
「いかがなさいました、有坂先生?」
私は腰まで伸ばした自慢の黒髪を指先で弄(いら)いつつ有坂の瞳を悪戯っぽく覗き込む。
「いや・・・しかし、珍しい美術品をこれほどお持ちだとは驚きました」
有坂は半ば嘆息しながら西洋風の作りの客間に所狭しと陳列される様々な私のコレクションに視線を巡らす。
遥か支那の青磁に、古の仏蘭西(フランス)の宮廷の調度。
目にも鮮やかな私の宝物達が老紳士の目を釘付けにする。
「そうだわ・・・そろそろ夕食に致しましょうか。
積もる話はそれから」
私はことさら麗しく微笑し、傍らに歩み寄ってきた和服姿のからくり人形から紅く濁った液体の満ちた杯を受け取った。
「それは何ですかな?
葡萄酒にしてはどす黒い・・・」
有坂は自らにその杯が勧められなかったことを訝りつつ、そう問うた。
「ああ、これは、血ですわ。搾りたての乙女の」
私はにやり、と口許を歪めて凡そ有坂氏が想像も及ばぬであろう返答を、殊更悠然と事もなげに嘯いてみせた。
「はあ。乙女の鮮血とは結構。では晩餐の主菜はその肉といった所ですかな?
これはこれは、正に人を食った話で」
有坂は至極当然の事ながら、怪訝な面持ちで至って冷然と私の言をあしらってみせた。
前近代とは異なり近代人にとっては血は勿論、怪異や殺人などは暖炉の傍で愉しむべき愉快な小説の種に過ぎぬのである。
間抜けな表情のまま凍りつく臆病者も、蒼白になって卒倒する乙女や淑女も帝都の何処にも居はしない。
焚きしめた伽羅の甘やかな香りが満ちる室内に沈黙が訪れた。
香炉からたゆたう白煙は窓から差し込む青白い月光の下、幽玄な趣で不吉な静寂を彩っていた。
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