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〈1〉
必死で逃げた。人間の体を形成するのは、約70%の水分。その殆どが干からび、蒸発してしまったような感覚だった。
口の中は未だに鉄臭い味と匂いが支配している。数少ない水分である唾液と一緒に吐き出してしまいたい衝動に駆られた。
運動不足――素より得意でない――が祟り膝が笑っている。それでも、ひたすら前へ。
彼女の手を払った後、梅津は来た道を引き返すように歩道橋を駆け下り、雑居ビルが建ち並ぶ間の細い路地へ逃げ込んだ。
偶々この界隈の地理に詳しかった事も手伝い、碁盤の目状になっている路地をふらふらになりながらも迷わずに進む。
目指すは交番。最短距離で行けば2分と掛からない。
首だけ後ろへやって確認すると、どうやら上手く撒いたようだった。気配は感じられない。
「何であんな事を……」
逃げ出す間際に言われた事が頭から離れない。
『食べてはいけないよ』
確かに彼女はそう言った。食べ物を指しての話ではない筈。
彼女の虚ろな瞳は、それを容易に感じ取れる程の不気味さがあった。まるで、生ける屍。
院内での雰囲気は一切感じられず、別人だとさえ思った。
どうすれば人は短期間であそこまで豹変できるのだろうか。
何れにしても、彼女とは関わるべきではない。警察に話し、保護して貰う。自分はそれ以上詮索しない方が良さそうだ。
顎の先から滴る汗を拭う梅津は、考えをそこに至らせた。
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