碧花の雫

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  彼女は群青の空を見上げていた。冬空の闇の中、暗雲がゆっくりと動く様さえもどこか幻のように映る。星の姿はどこにもなく、いつも楼から見る景色とはあまりに異なっていたから。 背中に回された母親の手が先ほどから震えていることに気づいていたが、この時ばかりは彼女――香凛(こうりん)の口にも慰めの言葉一つ浮かばなかった。 「何故です!!何故あの人がこんな目に遭わねばならぬのです!」 取り乱した母の声が耳奥を刺激する度に、香凛の視界はぼんやりと歪んでいく。数人の兵士から取り押さえられながらも、母は足掻き続けた。その振動になされるがまま、香凛の身体は傾ぐ。 ゆらゆら揺れて じわじわ滲んで 香凛は悪夢のような現実をさ迷っていた。 ――白露海を囲うように連なる三国の内、最北に位置する斈(がく)国。 冬には国土の殆どが雪に閉ざされる極寒の地である。かの国を統べるのは斈 壮氾(がく そうはん)。頭脳明晰で政治手腕に長け、この貧しい国に活気を取り戻した名君とされる。 その非凡な才能が幸を成し、第二夫人の嫡男でありながら王位を継いだ。他の三人の兄と一人の弟を差し置いて。 しかし表舞台に描かれる彼の顔と現実は余りに相反していた。相次いで世を去った兄もさることながら最後に残った弟もまた“不幸にも”儚くなる。   ・・ 世に偶然とは真に恐ろしいこと。 斈王の弟であり、先王第一王妃の次男でもあった柳影(りゅうえい)はこの晩“何者かの夜襲”に遭ったのだった。 「落ち着いてください奥方様!香凛様!主上から安全な所へ保護して差し上げろとの勅命を受けておりますゆえ……」 「黙りなさい!よくそんな白々しいことを申すな。おのれ壮氾!あの人を返せ!邸を返せ!!」 あんなに淑やかだった母を変えたのは恨みの情念。もとより柳影の命だけが狙いだったのだろう。 不自然に呼び出された母娘。放たれた火。出そうともしない助けの兵。 「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せぇ!!!!」 母が自慢にしていた艶やかな黒髪は乱れて頬に張り付き、角のない綺麗な爪は剥がれて血が滲む。背中に食い込むそれだけが、香凛の意識を現実に留めていた。 嗚呼、星が見えはしないだろうかと香凛は空を仰ぐ。 星は願いを聞き届けてくれるのだと父は良く言っていた。ならば叶えてくれと滲んだ視界に光を捜す。 全て夢であっておくれと何度も喉の奥で唱えながら。    
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