碧花の雫

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  赤く燃え盛っていた邸にようやく帰ることが出来たのは幾日かの後。黒い炭に沈んだ懐かしい場所には、何も残っていなかった。 「香凛様、危のうございます。早くお戻りくださいませ」 一晩のうちに家も父も日々の生活さえ失ったというのに、悲しむ時間さえ貰えないのだろうか。 伏せった母を介抱するのに手一杯で、香凛はまだ泣いてさえいなかった。流す頃合いを見失った涙は、鼻をツンと刺激しただけで瞳を潤そうとはしない。けれどそれは決して香凛が強いわけでも悲しんでいないわけでもなかった。 白い絹の着物が黒く汚れるのも厭わず、彼女は膝をつく。 『見てごらん香凛。 夜空には多くの星があるだろう?あの輝きは闇を拭って希望に変えてくれる。 聴こえないかい?星の瞬きが。父上にはあれが凛(りん)と鳴っているように聴こえるんだよ。だからお前に香凛と名付けたんだ。素敵だろう香凛』 とても優しい父だった。誰よりも家族を慈しみ、生臭い政には向かない穏やかな人。 先王の血を継いでいるというだけで殺されていい人なんかではなかった。 唐突な別れは悲しみよりも怒りを生み、嘆きよりも恨みになる。 愛する者の死とは何か形のないものに叫び怒りたくなる衝動。 幸か不幸か彼女の場合は恨みの形がはっきりしていた。 王座を手に入れておきながら、僅かな不安要素であった為に命を奪った斈の最高権力者。 「父上……私には凛という音が聞こえません」 煩いくらいに鳴り響くのは脳内に巣くう羽虫の音。澄んだ希望の音は無くしてしまった。 優しい思い出と共に燃えてくすぶり朽ち果てた。 骨さえ遺さなかった父の意志などもう届かない。星に願ったところで、瞬く音などしないのだから。香凛は一人決意する。 いつか必ず、この手で斈王を玉座から引きずり降ろしてみせると。父の命を虫螻のように捨てられるほどに大切な玉座。自分と同じように大切な物を奪われる空虚感や悲しみを味わわせてやるのだと。     香凛は膝の煤を払うと、小さな香袋に黒い炭となった思い出の欠片を押し込んだ。 甘い香の柔らかな薫りは焼け跡の強い臭いに消される。この決意を忘れることがないように。 「もう大丈夫よ。帰りましょうか」 たとえ己が奥底に眠る心に気づかぬふりをしていたとしても、私だけは決して忘れはしない。 忘れてはやらない。    image=261419985.jpg
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