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広大な斈城の離れにあるこの場所には、誰も姿を見せない。
朱露(シュロ)池と呼ばれる小さな池が緩やかな水面を見せ、それを庭師さえ踏み込まない草木が覆うのみ。
人が来ないのにはこの朱露池にも理由があった。昔、この城に生まれたとある皇子が残した軌跡の一つなのだ。
銀の髪を持つ神の子と呼ばれた古の皇子【銀燈/ギントウ】――彼は不思議な力を持つことで知られていた。翼を背に持ち、その手を翻すと業火が、腕を挙げればたちまちに凍りつく。彼の誕生に国は喜んだ。神が降り立ったのだと。
しかしそれも長くは続かなかった。大いなる力に負けた銀燈は発狂し、自身の父を殺めたのだとか。自らの罪を嘆いたかの皇子はこの池で自害を図り、朱き露へと変わってしまった。
それから斈国では“朱”は不吉な色であるとされ、塗りの色も碧で統一されることと相成ったのだ。
「朱は不吉か」
香凛の臨む朱露池は澄んだ水の色をしている。朱の翳りなど微塵も感じはしない。されどここで命を落としたかの皇子を思うと、小さな池が憂いを持つように見えた。
そのまま池をぼんやりと眺めていると、目の端に朱色が走る。ちょうど池にまつわる話を思い出していたために、香凛は慌てて肘を窓枠から外した。本当に池が染まったかと思ったのだ。
木々の鳴る音がして、朱い色が微かに覗く。どうやら染まっているのは池ではないらしい。息を呑んで見守っていると、朱色は姿を現した。
「誰?」
池のほとりに垣間見えるのは鮮やかな朱い着物を身に纏った人。不吉と言われる朱を堂々と身につけるその姿に、香凛は目を見張ってしまった。思わず小さな呟きが漏れる。
「だだだ誰だ!!!!」
香凛の呟きが聴こえたのか、朱い着物の男は慌てて辺りを見渡す。的外れな方向をキョロキョロと忙しなく捜しているため、香凛には気づかない。
すっかり怯えた様子の青年に、香凛の口元からは思わず笑みがこぼれた。
肝試しにでも来たのだろう。不吉な朱を身につけて悲しみの沈む朱露池に立つなど常人のすることではない。
「迷える皇子か!!?」
その証拠に、男は先ほどから剣を振り回しては騒ぎ立てている。もし香凛が位高き姫君でなければ気づいていたかもしれない。その蒼く翻る剣が王族貴族以外が持ち得ぬほど高価であるということに。
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