立つ瀬水面を血に染める

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灰色の谷に、一匹の狐がいた。 その狐は一匹と言うには余りに大きく、一頭と形容するにも余りに大きく、彼女は神々と同様に一柱と数えられていた。 頭を上げれば谷を超えて天に届くほどの巨躯だが、彼女は死んだように谷に横たわっていた。 妖孤と呼ばれる種族がこの谷に住んでいた。いや、この谷に追いやられたと言うほうが正解だ。 昔、妖孤は土地の神として敬われていた。人間は彼等を敬い、彼等もそれなりに人間に恵みをもたらした。しかし、天より神々の使いなる仙人が降立ち、人間に知恵と力を与えた。 知恵と力を手に入れた人間は、己の知恵で豊作を起し、天災を己の力で克服した。遂に土地神だった妖孤達を崇める者は居なくなった。 神獣である彼等の神格は、人間の信仰によって維持されてきた。しかし、彼等を敬う者が居なくなり、彼等の力は衰えた。ある者は死に、ある者はただの野狐に成り下がり、ある者は妖魔に堕ちた。妖魔に成った者だけがかろうじて一族を維持していた。それが今から四百年前。 しばらくして一族を束ねていた妖孤が、一族を率いて神々に戦を仕掛ける。首謀者の雌狐は、妖孤にしても異例の者だった。 妖孤は本来、力を増せば増すほど、年月を重ねれば重ねるほど尾が裂けて数を増やしていく。これまで最も数を増やした彼女の祖父でさえ四本の尾に止まったが、彼女はというと、その若さにして尾は六本に分かれていた。何より異様なのはその姿だった。他の雄を遥かに凌ぐ巨躯。そして、妖魔に堕ちたならば黒く染まる筈の毛並みは黄金のように光り輝き、その顔には銀にひかる白い隈取りが入っていた。さらに、唯一神格を失わず、逆に一族の神格を喰らうように神々しく成っていった。 一族の者達は彼女を姫と崇め、彼女を筆頭とした妖孤一族は神々と戦う。 百年続いた戦は神々の勝利に終わった。 神々の温情で彼女を入れた数少ない妖孤達はこの谷に追いやられた。 谷に眠る彼女は正に神々にたて突いた妖孤の姫だった。当時の面影は二つの意味で失われていた。 当時の金の毛並みは荒れて見る影も無く鈍い金に光っていた。目は鋭さを失い虚ろに空を見詰めている。
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