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卵焼きの甘い匂い。
炊き上がったご飯と大根のお味噌汁の温かな湯気。
薄く丁寧に切り揃えられた葱は納豆に入れるためにある。
いつもと何ら変わりのない朝の風景だけれど、アタシには解る。
だって、もう六年生なんだもの。予測くらいはつく。
きっともうすぐ、新しい風が吹くんだってこと。
ペタリペタリ。洗面所の方からママの足音が近づいて来た。
真冬でも裸足でいるママの足音は、ペタペタでもパタパタでもなく、いつだってペタリペタリ。
「あら、咲季起きてたのね。偉いわ。おはよう」
ふわりとバラの匂いのする香水をつけたママが、アタシをぎゅっと抱き締める。
朝の抱擁。ママは時々こうして、アタシをうんと子供扱いする。
ほとんどは、大人の女の人と同じように扱ってくれるけれども。
大人も子供も平等。ママにとっては、おんなじなんだと思う。
だって前に言っていたもの。
「愛しているか、愛していないか、それ以外のことに大きな違いなどないわ」って。
「エネルギー充電完了」
アタシを存分に抱き締めた後、二人用の小さなテーブルについてからママは言った。
「真田さんとね、今後特別に逢うことはなくなったの。勿論、もう家へも来ないわ。
でもね、咲季さえ嫌じゃなければ塾は続けて欲しいって。咲季はどう思う?」
アタシは、納豆を混ぜる手を休めることなく言った。だって、納豆は粘りが重要なんだもの。
そうして、充分に空気を含ませ、ふわっとした納豆をご飯にかけながら応えた。
「いいよ。塾続けても」と。
「素敵」
ママはニッコリと微笑んで、そう言った。
「真田さんほどの先生は、滅多にいないんですもの」とも。
ママは家から自転車で15分ほどの喫茶店で働いている。
今時のカフェみたいところでなくて、古びた深みのある喫茶店。
真田先生との出逢いも、その喫茶店だったという。
細くて長い指でメンソールの煙草を一本だけ吸い、ブルーマウンテンをゆっくりと味わうように飲む真田先生の姿に、ママはすっかり腰抜けになっちゃったのよ。と、言っていたのは半年前。
もっとも、か細い体をふんわりとした服で包み、ゆるくパーマのかかった長い髪に、くっきりとした目鼻立ちのママにだって、真田先生は腰抜けになったに違いないとは思うけれども。
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