…序章…

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  「……な、なにこれ…」   夜靡に部屋を引っ張り出された雛桜は、目の前の光景に開いた口が閉まらない。   「みんなも、月の御方が来ると聞いててんてこ舞いなのよ」   夜靡も、まるで先程の自分を棚にあげ苦笑している。   (…すぐ外は嵐だったのに…よく暢気に寝てたな私も…)   そう、雛桜が思えるほどに、儚懐楼内は大騒動になっていた。   誰も彼も、まるで競い合うように着飾り、いつもなら教養豊かで廊下など走りもせず、なにがあろうとも焦燥の表情などみせない人たちが、一秒たりとも無駄になんてできないとドタバタ走り回っている。   「本当に…いったいどんな御殿様がくるんだろ…?」   そう呟く雛桜の能内には、全く「月の御方」の人物像が浮かばない。   地位も名誉も金も、何を十分に携え訪れたって彼女らをここまで狼狽させることなどできないだろう。   そんなことを思っている雛桜に「さぁ、行きますよ」と夜靡がニコリと微笑む。   その微笑みを見て、「どこに?」よりも「この嵐の中を?」と雛桜は思った…。 けれど今にも勇猛果敢に嵐の中へ身を投じようとしている夜靡の後を付いていく以外、自分に選択肢がないことを知っている雛桜は覚悟を決めた。   そんな夜靡は気さくで決して気取ったり驕ることなく穏和な性格から儚懐楼内では誰もから慕われ、楼主からの信頼も厚い。   そして本来なら、姐女郎が禿の身支度をするなど通常は有り得ないのだが、普段、夜靡と雛桜は本当の姉妹のように仲がいい。   それだけでも十分に、この儚懐楼で夜靡が十分な教養を受けてきたことや、人柄がいいことがうかがえる。   けれど…と、雛桜はすっかり静まり返った中を凛とした様で優雅に歩く夜靡を見て思った。   (やっぱり流石は儚懐楼の宝玉…)   透き通るような白い肌にほんのり血色よくピンクがかった頬、すっと端整な鼻筋。   桜ん坊のように可憐な朱色でふっくらした唇に長くふんわりとした栗色の髪。   華奢な身体ではあるが、こういう場面で見せる堂々とした様や、一見幼くみえそうで大人っぽい色香を放つ翡翠色の瞳。   そんな素晴らしい美貌と気品を夜靡は持っていた。   それこそが、この儚懐楼にて唯一「御太夫」と呼ばれる儚懐楼の宝玉の証で、夜靡という太夫としての姿である。
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