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聴衆の誰からも見えない体育館の舞台の隅にある椅子に座り、僕はガムを噛んでいた。ひたすら噛んでいた。何かを噛んでいると緊張がほぐれると聞いたことがあるからだ。
舞台の上には一台のグランドピアノが置かれている。
息子があそこに座る。そして私は五年ぶりに息子のピアノを聴くことになる。
高校生活、初めての文化祭。
僕は決めていたんだ。有志ピアノ演奏で僕のピアノを母に聴いてもらうと。聴衆のざわめきが聞こえてくる。
僕のガムを噛むペースが速くなっていく。
先生が合図を出したので僕は立ち上がり、ガムをティッシュに包んでポケットに突っ込んだ。僕はグランドピアノに向かって歩きだす。
ついに舞台に息子の姿が見えた。
学生服が似合っている。五年ぶりに見る息子は私の身長を優に越えている。
息子がグランドピアノの横に立ち一礼をする。
僕が礼をして顔を上げた時、一瞬母の姿が見えた。少し老けただろうか。母は合掌をして僕を見つめている。
姿勢をただしてから僕はピアノの前に座る。
――母さん、聴いていて下さい。
――母さん、これが僕のピアノです。
僕は軽く深呼吸してから、鍵盤に指先をのせた。
息子の震える指先からの一音が私の両耳に鳴り響く。
母の目から一筋の涙が頬を伝うのが僕の横目にうつる。
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