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「おい、研修医。鉤をもっと引いて、術野広げんと生食をかんませねーぞ(かき混ぜられないの群馬弁)」
浅野が松沢を叱る。
「はい」
松沢が鉤を引き、術野を広く確保する。
十分にかき混ぜる。腸の表面が潤う。
「いい、臓器と傷は乾燥させちゃいけないの。
人間の細胞は乾燥すると死ぬからね」
松沢は頷く。
「吉田先生、KTは?」
「36.9度。もう大丈夫だ」
「じゃあ細胞診に出します。今度は迅速細胞診じゃなく、ちゃんと固定する一般オーダーでね。50mlのシリンジを」
シリンジで腹腔内を洗った生食を吸い、それは微に入り、細を穿つ細胞診断に回される。
桑田は迅速診断の精確さは天下一品だが、細胞診も一般の病理医や細胞診断医、細胞検査士(臨床検査技師だが、病理医や細胞診断医の指導のもと細胞診断をする資格のこと)よりも上の診断能力を持っている。
ホルマリン、アルコール、キシレン、ろう(パラフィン)と固定する時間をかけた病理診断・細胞診断の方が、やはり固定を液体窒素での凍結に代用した迅速診断より正確であり、顕微鏡像も分かりやすくきれいなのである。
遺伝子解析や特殊免疫染色も迅速診断でなければ可能であり、それらは診断をヘマトリキシンエオジン染色(HE染色)単独よりも更に精確にする。
外科医としての毒島の診断では、おそらくこの精緻な腹腔内洗浄細胞診でも腫瘍細胞は見つからないはずである。
毒島の大腸がん手術100例以上の症例からでも、いくら漿膜面に侵潤しているとはいえ、この程度の腫瘍径で播腫は経験がないからだ。
残りの450mlを吸引器で吸引する
ズーズーとまるでストローを空すすりするような音が出る。
浅野に目くばせする。
浅野は大網と腸を持ち、テンション(引っ張り)をかけ、術野を確保する。
毒島がヘンレの胃結腸間静脈に入る副右結腸静脈を視認する。
「鑷子、ケリー」
毒島は左手で鑷子を、右手でケリーを持ち、ケリーで副右結腸静脈からまわりの結合組織を剥がす。
実に絶妙に左手の鑷子が働く。ある時は静脈を持ちあげ、ある時は剥離する組織にトラクションをかけである。手術は左手とはよく言ったもので、彼女のスピードはこの左手によるものが大きい。
あとは命を大切に思わないから怯えずスパスパ手術操作を出来ると言う心理面も大きいが。
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