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お昼を過ぎた頃。
私の前には彼女と女の赤ちゃんが並んでいました。
女の子は保育器の中ではありましたけれど、時折り口をモゴモゴと動かしており、元気そうでございました。
しかしながら、彼女からは動く気配は感じられず、顔は真っ白い布で覆われておりました。
それから暫くして、彼がゆっくりと入って参りました。
彼の眼は真っ赤で、どこかの壁でも叩いたのでしょうか、手には血が滲んでいるように見えました。
初めに彼は、女の子を覗き込み、
『ゆりな。』
と一言声をかけ、力なく微笑みました。
そしてその微笑みを携えたまま、彼女のそばに立ち、顔にかけられた真っ白い布を取り払いました。
誰もがまるで声を出すのが怖いかの様に、静かにじっと、彼を見つめていました。
次に彼は、彼女のベージュのポーチから、箱に入った口紅を取り出し、ゆっくりと子指で、彼女の冷たくなった唇に塗ってあげたのでございます。
その口紅は、彼女が元気であった頃に二人で出掛け、式の為にと買ったものでございました。
そして彼女の耳元に口を近づけ、
『ありがとう。友理。ありがとう。』
と囁きました。
どれ程の時間そうしていたでしょうか。
私には、薄く紅を引いた唇から、彼女の声が聞こえてくるのを、じっと待っているかの様に思えました。
彼が胸に置かれた彼女の手を握ろうとした時、彼の口から、ついにやり場のない叫びがほと走りました。
彼女の指は可哀想なほど痩せ細り、指輪を着けていられる状態ではありませんでした。
彼女は、骨と皮だけになった指から、指輪が抜け落ちてしまわない様に、最後の力を振り絞って強く強く握りしめたまま、逝ったのでございます。
彼女の想いが、私に割れんばかりに伝わって参りました。
彼女は私の中をゆっくりとくぐり抜けて、天へと召されて逝かれました。
こうして、彼女の想いは、私の中に刻み込まれたのでございます。
彼がこの部屋で見せた2度目の涙は、彼の一生分の涙かと思うほどのものでした。
その日は大安の日曜日。
遠くで、チャペルの鐘の音が聞こえておりました。
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