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飛翔 流浪
2014/2/22 | 更新 2014/3/29
幕末★佐幕派・新撰組
エブリスタで最も人気があるのが新撰組でしょうね。 いろいろと逸話がおおいでしょう。
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18・
虹彩
2014/3/29 14:42
新選組物の小説にあまり載っていない、明保野事件についてを、今連載中の小説で扱っています。
柴司の兄の報告書と、会津藩の報告書を元に物語に落としているんだけど、結構ドラマチックな展開なのに、今迄読んだ小説には扱われていなかった、というのが不思議です。
やはり、百五十年たった今も、あのクーデターの暫定政府の続きなのかと、思ってしまいたした。会津藩よりのエピソードは、取り上げられづらいよと、他のクリエさんからの言葉に何と無く納得。
あたしは、取り上げて知って貰いたいと思い、執筆中です。
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17・
上杉ゅぅ
2014/3/18 0:22
>>[[14900187]]明治維新の目的とは何か?
の具体的な視点が欠けています。
情報戦とは相対的な考え方
また 見方により分析する。
維新の目的とは またその方法とは?
そしてその後は?
誰がどのように特をして…という鳥瞰的視点です。
大きく物事を見ると解ることも
見えることもあるかと思います。
こちらはだいたいです。
それから新撰組に勝海舟は
裏切り者と思われている
甥っ子を預ける
人質ですね。
保身&厄介払い
近藤派とその他など…
会津藩の動向などだいたいの情報で
良いのです。
坂本龍馬ゃ長州藩ゃ薩摩藩 土佐藩への
警戒など また その動きです。
一番は勝
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16・
居眠り猫
2014/3/17 0:09
>>[[14900176]] 続き
反対論
・知り合いの所に甥を預けるのが常識的だとすると、勝は近藤や土方と顔見知りだった可能性が高く、そうであれば職権を振り翳して新選組の情報を聞き出すことくらい簡単なこと。わざわざ大事な甥を潜り込ませる必要はない。
・明治になってから、勝は啓之助を慶應義塾に入れている。勝と福沢諭吉はお互い嫌っていたことは明白なのに、そんな天敵がやっている塾に大切な甥を入れるのはおかしい。
これはもしかすると、勝は啓之助が嫌いで厄介払いしたのかもしれない。そうすると、勝は新選組のことも嫌いで、啓之助をただ単に新選組に放りこんだだけだと考えられる。
・粗暴で客
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15・
居眠り猫
2014/3/17 0:07
>>[[14879945]]
ちょっとディベートふうに三浦啓之助のスパイ疑惑を検証してみました。
肯定論
・8歳で父佐久間像山の代筆を務めていたほど学才があり、その聡明さを買っていた勝が調査官として送りこんだと考えられる。
・新選組を脱走後、戊辰戦争では官軍として北越戦線で活躍し、その手柄で薩摩藩の口利きで松代藩に帰藩している。これより、とことん佐幕の新選組とは反りが合うはずもなく、むしろ倒幕よりであったのではないだろうか。
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14・
上杉ゅぅ
2014/3/15 10:55
ある日 啓之助が刀を見せびらかしたところ
刀より、先に腕を磨いたほうがいいんじゃないか
と からかわれたことを根に持って
碁を打つているところを後ろから
斬りつけたところを他の隊士に止められ
その理由を聞いてみると
いや 腕が悪いと言われたので
本当に悪いかどうか斬ってやろうと思った
と 悪びれる事なく平然と答えたそうです。
またこんなことも…
屯所の前でただぶつかったという理由だけで
物売りの女性を無礼討ちにしました。
極悪非道な行いです。
無礼討ちは認められる事が少なく
何故 切腹ゃ打ち首にならないのか
分からないです。( ;∀;)
間者をたどると見えない糸の絡まった
維新の
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13・
上杉ゅぅ
2014/3/15 10:51
まず初めに龍馬がゆくはいりなので
向こう側から見た風景で
幕末 維新【會津藩 新撰組】を見ていたので
表面的な事柄しか分かりません。
よろしくお願いいたします。
【国際政治が大好きナノで鳥瞰図のように
歴史も見ます。】
∴勝海舟の紹介により新撰組に入隊した
【三浦啓之助】異色のひと …悪魔ですね(`へ´*)ノ
大きな流れたをたどると勝海舟さんの
間者 また 新撰組の内部調査をしていたのかと思うのですが…
余りの無能に卑怯者 極悪非道ぶりです。
親の七光りを思う存分使って
悪行三昧の末 天罰がくだった典型です。
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12・
上杉ゅぅ
2014/3/15 10:41
>>[[14853764]]そうですよね十分考えられますね。
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11・
虹彩
2014/3/13 5:34
>>[[14853764]]阿部の脱走は、年が明けてからですし後々歳入隊しています。ぜんざい屋事件で活躍されたそうですし、谷兄弟の道場出身ですから、スパイではないと思うのですが。
平山が姫路出身だという根拠は元姫路藩士の道場の門徒になったからですよね。
もうこの頃にはかなり自由に藩を出入りしていたのが伺えますよね。
気になるのは、阿部のように脱走しても斬られていない隊士の存在です。
事情で脱隊した者も。
法度はかなり適当に都合良く運用されていたなと思わざるを得ません。
阿部は、きっと近藤の事は好きになれなかったのでしょうね。
結局、伊東について行き、後々伏見で近藤を襲っていま
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10・
居眠り猫
2014/3/13 2:33
>>[[14850071]]
平山さんの出身は諸説ありまして、姫路だとも言われています。
年齢は文久3年の時点で35歳だったそうです。
スパイについてですが、ある本に興味深いことが書いてありました。
文久3年の芹沢粛清の後に粛清された御倉伊勢武や楠小十郎たち6人は長州のスパイと一般に言われています。
しかし、たかが50人のちっぽけな組織に6人もスパイを入れるというのはあまりにも不自然である。そこで次のような仮説ができる。
彼等6人は芹沢派の人間で、芹沢派を一掃したい近藤派のめざわりだったので長州のスパイであるという名目をきせて粛清。それに恐れをなした芹沢派の残党(阿部十郎な
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9・
上杉ゅぅ
2014/3/12 22:01
>>[[14806097]]ありがとうございます
_(._.)_
新撰組については表面的なことしか
知らないので勉強になります。
芹沢鴨さん一派なども掘り下げると
魅力的に描けるのかなぁ~ と
思っています。
よろしくお願いいたします。
そうなんですか?
平山さんは加賀出身ですか?
剣術は流派が違う また
たぶん歳上なのですね。
早くに江戸に出て剣術を学んだのでしょうね。
当時の江戸もいろいろ楽しいことなど
また 珍しいことなどもあったようです。
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8・
居眠り猫
2014/3/9 0:36
>>[[14804535]]
山野さんと平山五郎は因縁があるようです。
・山野さんの出身は加賀大聖寺で、平山は『英名録』『新撰組始末記』などによると同じく加賀の出身とされています。
意外と同郷で気があったのかもしれません。
・数少ない山野さんが登場する話。文久3年8月下旬、米屋に入った強盗を退治しに出向いたのが、山野、平山、永倉、斉藤、中村金吾の5人でした。
これらに加えて、剣術の稽古の逸話。
この二人、実はいいコンビだったのかもしれませんね。
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7・
上杉ゅぅ
2014/3/8 22:41
>>[[14790376]]
局長近藤勇等も、
「どうだ山野、俺も一つ山野屋に連れて行かんか」とからかったが、山野はニコニコと笑うばかりで腹も立てなかったらしい。
堅物 真面目と言われる近藤勇局長が
八十八さんに冗談を言う位に心を開いている
ことからも強い信頼感があったものと
思われるからです。
*平山五郎は潰れている左の目の方から打ち込んで行くとどんな名人でも勝てないと言われていたが、山野だけは打ち勝つ事が出来た。平山も彼には脱帽して「山野は不思議な剣術を使う。」と言っていた。
それから 剣術の稽古が平山五郎さんで
芹澤鴨さんの右腕です。
浪士組の頃から顔見知りで
その後に
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6・
上杉ゅぅ
2014/3/8 22:32
>>[[14790376]]素敵な情報ありごとうございます。
_(._.)_
文久三年の8月18日の政変以前に、21才か22才の若さで新撰組に入隊し、直後の政変には参加したと見られている。
とあるのでこの辺かなと たんなる勘働きです。
それと 顔見知りで(事前)その後に合流した
その場合は名簿に載らない 又は
後から載せる場合も有り得るかと
∴基本は史料で確認します。
脱藩の浪士などは事情もあるのかと…
それから 官軍による歴史からの削除など
会津藩 新撰組の史料の隠蔽など
その後会津藩の史料など昭和に
発見されたり 発表したりして
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5・
上杉ゅぅ
2014/3/8 20:00
>>[[14786431]]素敵な情報ありがとうございます。
山野八十八さんは近藤勇局長さんからも
からかわれるほど信用される人物だったようです。
最後の戦 函館 五稜郭まで土方歳三さんと
共に戦ったのも降伏の前に離脱したのも
誠の一字を守り抜いた証しなのかもです。
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4・
居眠り猫
2014/3/7 20:25
>>[[14786431]]
文久3年5月25日の『国事異聞』上書署名簿には記載されていませんが、
6月の『新撰組史』在隊名簿には、山野さんが登場しています。
ちなみに、この資料には芹沢鴨と平山五郎を除く50名が載っていて山野さんの席次は31番目です。
元治元年10月15日の『会津藩庁記録』上洛者名簿(伊東甲子太郎たちが記載されている)には山野さんは載っていません。
なので、私は文久3年6月上旬頃の入隊だと思っています。
なお、美男五人衆の話は子母沢寛の創作かもしれないので、根拠にするにはやや弱いかと。
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3・
虹彩
2014/3/7 12:37
*山野八十八
彼の素敵なイラストを見て、自分の小説に登場させようと、調べた事をちょっと綴ってみます。
小説の資料にしているのは、永倉新八の新選組顛末記と、Wikipediaの新選組。
ここでは、彼の入隊は文久三年になっています。
でも、Webに、幕末維新新選組、新選組大事典というのを見つけ、ここでは伊東甲子太郎と同期って載っていたのですょ。
小説の元治元年に登場させちゃったから、大慌てで他の小説や、歴史本を見たのですが、彼の記述は少なくって、、、
でも、美男5人集って呼ばれていたことを考えると、やっぱり文久の入隊ですよね。
だって、その中の1人、佐々木愛次郎は早々に死んでいて、五人揃っていたの
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2・
居眠り猫
2014/2/23 7:14
はじめまして。
早速投稿させていただきます。
新撰組隊士の平山五郎についてです。
文久3年(1963)の隊士のリスト(嘆願書などの署名の記録)が6つほどありますが、次第に芹沢鴨派の平山五郎のリストの順番が上がっていきます。リストの順番が即ち序列であったら、平山五郎は新見錦よりも序列的には上であったのではないでしょうか。
つまり、5月の時点で
芹沢→近藤→山南→土方→平山
という序列だったのでは?
こう考えると、平山がただの芹沢の腰巾着ではなく、芹沢の右腕のような存在で、隊内では偉様の部類だったと考えられます。
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やはり、百五十年たった今も、あのクーデターの暫定政府の続きなのかと、思ってしまいたした。会津藩よりのエピソードは、取り上げられづらいよと、他のクリエさんからの言葉に何と無く納得。
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