第110話『会食』

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第110話『会食』

 無事、屋敷まで案内されたネイバーフッド伯爵は入浴を勧められて湯に浸かっていた。  浴場に張られた湯は聖水だった。 「生活用水が聖水というのは本当だったのだな……」  温められた聖水を手で掬いながらネイバーフッド伯爵は呆然と呟く。  こんな贅沢に聖水を使うことが許されている領地が他にあるだろうか?  あの大聖国ですら聖水を文字通り湯水のごとく使うなどありえないというのに。  ニコルコという領地の底力は一体どれほどのものなのか? 「考えるだけでも恐ろしいな……」  あの男は一体何者なのだろう。  魔王を倒し、様々な奇跡を起こす者……。  ネイバーフッド伯爵は、そんな存在に一つだけ心当たりがあった。  そう、まるでヒョロイカは―― 「いや、だがそれではなぜ陛下はヒョロイカを陥れようとしているのだ?」  なぜ、召喚は失敗したなどと公表したのだ?  …………。  最後に見せられた騎士団の演習風景がネイバーフッド伯爵の頭をよぎる。  ヒョロイカは軍事面も抜かりなく強化を進めていた。  あれほど練度の高い騎士が揃っているなら、数で勝る王都の騎士団とも渡り合えるだろう。  いや、魔王を倒したヒョロイカが率いるのならそれどころか―― 「…………」  十分に温まったネイバーフッド伯爵は湯船から立ち上がった。  この後はヒョロイカとの晩餐会である。  果たして、自分はどうすればよいのだろうか?  想像をしていた以上にこの件は闇が深いのかもしれない。  湧き上がった疑念と際限ないプレッシャーに押し潰されそうになりながら……。  ネイバーフッド伯爵は夕食という名の戦場に赴くのだった。 ◇◇◇◇◇  夜。  屋敷にて俺はネイバーフッド伯爵と二人で食卓を囲んでいた。  テーブルに並ぶのは魔物のステーキなど、ニコルコで取れる食材をふんだんに使った料理。  ワインも連邦から取り寄せた高級品である。  普段の夕食はデルフィーヌやエレンやベルナデットたちも一緒なんだが、今日は客人とサシで対話したいから席を外して貰っている。  壁際にはジャードとエレンが控えてくれてるけど。  給仕係としてメイド長とメイドさんたちもいるけど。  基本的に口を開くのは俺とネイバーフッド伯爵の二人だけだ。 「料理の味はいかがですか? ネイバーフッド伯爵?」  ここで親睦を深めることができれば領地の横の繋がりが強化される。  なので、割と失敗できない重要な会食である。  俺は積極的に会話を振って友好度アップに勤しんでいた。 「ええ、かなり美味ですよ……」  どうやらお気に召してくれたらしい。 『かなり微妙ですよ……』の聞き間違いじゃないよな?  まあ、これで駄目ならニコルコのメシ全否定だからね。  ネイバーフッド伯爵がグラスやフィンガーボールの聖水を見て『ここも聖水か……』と感嘆の息を漏らしていた。  うんうん。  ここまでの行動は概ね好印象に繋がっていると見て間違いない。  では、さらに駄目押しといこうか。 「こちらはニコルコの名産として考えている一品なのですが……。よろしければネイバーフッド伯爵の意見をお聞かせいただけないでしょうか?」  俺はメイド長にスシを持ってくるよう伝える。  後ろに控えていたエレンが『あの腐ったコメ料理を出すのか……』と小さく呟いた。  だから、腐ってねえって言ってるだろがッ! 「これは……生の魚ですか?」  寿司を目の前にしたネイバーフッド伯爵が表情を青くさせる。  やはり拒否反応を示すか……。  文化の違い、さながらベルリンの壁のごとし。  なかなか乗り越えることは難しい。  だが、ベルリンの壁ならいつかは壊せるのだ! 「スシと合わせてこちらの酒も召し上がって下さい」  トクトクトク。  メイドさんがネイバーフッド伯爵に新しいグラスを出して日本酒を注いだ。  手応えがよくないなら切り替える。  ヒット・アンド・アウェイで畳み掛けていく作戦。  会話の勢いで一口は食わせてみせるっ! 「ふむ、随分と透き通っていて美しいですな……ヒョロイカ殿、この酒は一体?」 「はい、その酒はニホンシュといって、コメと聖水で仕立てたニコルコの特産品です」 「ニホンシュ? また聖水なのか……」  ネイバーフッド伯爵は再び感動の溜息を吐きながらニホンシュを口に含んだ。  よし、引き続き心に響いているな! 「…………」  ニホンシュを口に含んだ瞬間、ネイバーフッド伯爵は目を大きく見開いた。 「ヒョロイカ殿……」  グラスをゆっくりとテーブルに置いたネイバーフッド伯爵は神妙な表情で俺の顔をちらちら伺ってきた。  何かを言おうか言うまいか迷っている。  そんな雰囲気である。  ふふっ。これはあれだろ?  わかってるよ?  あまりの美味さに感激して絶賛が始まる流れ―― 「ここまで領地を成長させて貴殿は一体、何をなさろうとしているのです? まさか本当に謀叛を企てているのですか?」  ――じゃなかった。
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