二 八幡坂

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有無を言わさず髪をピンで留められた清子の顔。美容店員の手によってどんどん肌色クリームが塗られて行った。清子は鏡でそれを見ていた。 「うわ?私の顔の痣が」 「ほらね?消えたでしょう?」 「本当だ。消えました」 目の周りの青い痣。薄く消えていた。顔に痣のない顔。どこか自分じゃないような気がした。驚きの清子をよそに店員はそのまま口紅も挿した。髪も整えてもらった清子は別人になった気分だった。 「はい。完成です」 「これは……私でしょうか?」 「ホホホ。とてもお綺麗ですよ」 他の店員もやってきて変身した清子を褒めてくれた。 「お似合いですよ。この商品はお肌に悩みのある方が買って行かれますよ」 「これは。おいくらなんでしょうか」 店員は肌色クリームだけでは効果がないと言い、他の化粧品もセットだといった。この金額、今の清子でも買うことができる金額だった。 「お客様。今はお得ですよ」 「そうですよ。こんなに綺麗になって」 鏡の中の自分。とても綺麗だった。今まで痣で悩んでいた清子はこんなに手軽なクリームがあるとは知らなかった。 ……そういえば。お母様はこうしてお化粧していたかもしれないわ。 女性の嗜みの化粧。痣を消す簡単は方法。自分はこんな便利なものを知らずにずっと悩んでいたのだ。 「お客様。それではお会計で」 「私……今は要りません」 「え」 清子ははっきりそう言うと立ち上がった。てっきりお買い上げと思っていた店員は驚いた。しかし清子は店員に向かった。 「このお化粧は、落とさないとダメですか?」 「い、いいえ?どうぞそのままで」 「ありがとうございました」 清子は化粧品売り場を後にした。そして足早に帽子売り場に向かった。 「いらっしゃいませ。何をお探しですか」 「カンカン帽です」 「ご自分用ですか?それとも贈り物で」 「……婚約者の方です。お世話になっているので」 「まあ?男性用?それでしたら良いのがあるのです!」 店員は素敵な帽子を勧めてくれた。清子は値段を見ずに朔弥に似合うものを見つけた。 「お目が高いですね。今お持ちの帽子は新しいデザインです」 「とても素敵です……これにしようかな」 自分で働いたお金で清子はこれを買った。これを胸にデパートを出た。 帰り道。清子は複雑な思いで石畳の道を歩いていた。 ……顔が違うだけで。人はこんなに違うものなのね。 痣のある顔ならば決してありえない待遇。優しい人々、親切な様子。清子の胸は悲しみで満ちていた。 痣がなければ。両親の愛を受け学校にも通わせてもらえたであろう。痣がなければ、好きな仕事に就けたであろう。清子は痣がなければ幸せになれたと思っていた。 しかし、そうではなかった。痣があってもなくても。自分は自分。それに気が付いた。 ……人を見かけで判断をして。その中身を見ようとしない事こそが、不幸なんだわ。 痣があるだけで犯罪者のように扱われた実家での日々。しかし、痣が消えた途端、世間の人は優しくしてくれるこの世界。清子は痣のある自分が愛しく思えてきた。ガラス窓に映る自分を見ないように下屋敷に帰ってきた。 「ただいまです!」 「おかえりなさいませ……まあ、清子様。その顔」 「これは。デパートでお化粧をしてもらったんです」 「まあ?ようござましたね」 てっきり清子が化粧品を買ったと思った瀧川は嬉しくて手を叩いた。そんな瀧川をよそに清子は朔弥の部屋に顔を出した。 「遅くなりました」 「おかえり。なんだ、お前。香水くさいな」 匂いに敏感な彼。清子の顔など気にしない朔弥が彼女には嬉しかった。 「はい……デパートに行ってきたので匂いが移ったんですね」 「ところで。何を買ったんだ。好きなものを買えたか」 「はい!これ、です」 清子はふわと朔弥の頭に帽子を乗せた。 「これは?」 「カンカン帽です」 「俺に?お前が?」 自分で稼いだお金。年頃の娘の清子が何を買うのか楽しみだった朔弥。彼女の弾んだ声に思わず目が熱くなってしまった。 「なぜ……これを?」 カンカン帽を被ったままの朔弥は目を瞑った。 「欲しいとおっしゃっていましたし。それに、とてもお似合いですよ」 「そうか」 黙ってしまった朔弥。清子は首を傾げた。 「あの。どこか、不具合でも」 「いや……いいよ。気に入ったよ」 朔弥は涙を誤魔化し帽子を被り直した。 「どうだ?」 「お似合いです」 「俺は何でも似合うんだ」 「ふふふ」 嬉しそうな清子。朔弥は彼女の手を握った。 「ありがとう。大切にするよ」 帽子はもちろんだが、それは清子への言葉だった。彼はこの言葉を言うだけで、朔弥は胸いっぱいだった。清子も嬉しかった。 「はい。喜んでいただけて、清子も嬉しいです」 静かな夏の夕暮れ。愛に包まれた部屋は静かに時が流れていた。 ◇◇◇ 翌日。朔弥はカンカン帽を被って会社に赴いた。岩倉貿易会社での仕事の合間、元栄不在の社長室で朔弥は哲嗣に絵画について尋ねた。 「あの絵ですか、あれは画廊に見せたところ、買い手が着きそうなので売るようにと父上が言っていましたね」 「そうか」 「なぜ絵のことが気になるんですか」 目が不自由な兄の問い。朔弥は弟にそのまま話した。 「清子が気にしていたんだ」 「ああ。清子さんはあの絵を見ていましたからね」 暗い屋敷の内部。ランプを持っていた清子は壁に飾られた風景画を見ていた事を思い出していた。 「どんな絵なんだ」 「風景画です。八幡坂なので、下屋敷の近くですね」 絵を見ることがない兄。哲嗣は補足した。 「兄上。この坂の上から見える景色は、そうだな……下へまっすぐ伸びる石畳の道。その両側には桜並木と家並み。この道の先には横切る市電があります」 「海は?」 「道の先です。そこに外国船が浮かんでいて、青い空が広がっている感じかな」  函館の坂道は皆このような景色。しかし八幡坂は石畳と市電が見えるのが特徴だった。ここで生まれ育った哲嗣は兄にそう説明した。 「……美しい景色なわけだな」 想像できた朔弥。哲嗣はそっと窓の外を見た。 「ええ。改めて見ると、綺麗な場所ですよ」 「そうか……」 朔弥は納得し、そっとお茶を飲んだ。 「さて。それはそうと先程の続きをするか」 話を切り上げ朔弥は仕事を再開しようとした。哲嗣はじっと兄を見た。 「それはいいですが。良いのですか」 「何が」 「いや?別に」 ……あんな女の事などどうでも良い! 清子の気持ちなど哲嗣には関係ないこと。それに兄は何も思っていない。哲嗣は仕事を再開した。しかし、集中できずにいた。 ……確かに。夢中になってあの絵を見ていた。 埃まみれになって屋敷を一人で掃除していた彼女。その彼女はあの絵画を見つめていた。真剣に、そしてどこか懐かしそうに見ていた痣のある横顔。哲嗣は思い返していた。 「哲嗣。数字を読んでくれ」 「は、はい」 手元の資料。哲嗣は自分の読み上げる声が、どこか他人の声のような気がした。 「哲嗣。どうした。同じ数字を読んでいるようだが」 「……兄上。あの!」 「なんだ?大きな声を出して」 哲嗣は兄に向かった。 「清子さんは、あの絵が気に入ったんじゃないか」 「絵?先程の話か」 驚きの朔弥。哲嗣はそうだとうなづいた。 「でも。それを言えないんだよ」 「なぜだ」 「……兄上は見えないからだよ」 哲嗣は苦しそうに話した。 「絵は見て楽しむものだから。彼女は兄上に遠慮しているのかもしれない」 「なるほど。確かにそうだな」 朔弥は頭をかいた。 「お前が見てそう思うのなら、そうかも知れぬ。そうか、絵が欲しかったのか」 朔弥はふっと笑みを見せた。 「わかった。ありがとう。早速父上に相談するよ」 「ただそう思っただけだから。さあ。数字を読みますね」 どこかほっとしている哲嗣の声。朔弥は微笑みながら聞いていた。 ◇◇◇ 後日の下屋敷。清子は瀧川と料理をしていた。 「しかし。清子様は、なぜその肌色クリームを買わなかったんですか?お似合いでしたのに」 「瀧川さん。その話はもういいじゃないですか」 自分のものを買わなかった清子。瀧川は数日経っても気にしていた。が、清子は朗らかだった。その時、下屋敷にトラックが入ってきた。 「朔弥様。トラックがきました」 「清子。行ってみてごらん」 彼に即されて行ってみると、そこには白い布に包まれた大きな物が運ばれてきた。 「奥さん。どこにおきますか」 「それは何なんですか」 ここにやっと朔弥が顔を出した。 「それは客間に運んでくれ。清子、頼む」 男二人で運んできたもの。彼らが去った後、朔弥の指示で清子は布を取った。 「これは。あの屋敷の絵ですか」 「そうだ。売る前に持って来たんだ」 朔弥は嬉しそうに椅子に座った。 「お前が絵を気にしていたのでな。好きな絵があるならうちで飾ろうと思う。私は見えないのでお前が好きなものを選べ」 「いいんですか」 清子は絵画について何も知らない。しかしこの絵は素敵だなと思っていた。これを気が付いた朔弥の優しさに清子は胸が躍った。 「哲嗣の話によるとだな。大きな絵は風景で、小さな絵もあるようだな」 「そうです。函館の風景で、冬の教会などがありますね」 しみじみ話す清子。しかし彼女の手が止まった。 「それが八幡坂?」 「どうしてお分かりになったんですか」 「何でもわかると言ったろう。その絵が欲しいのか」 「あの、この風景は、この近くなんです」 清子は恥ずかしそうに語った。 「この春の景色は、朔弥様と初めて散歩した時の景色に似ていて。つい、その」 二人で歩く道の絵画が欲しいという清子。朔弥はもちろん決めた。 「ではその絵を飾ろう」 「……素敵ですよ。この部屋にもお似合いです」 彼女の弾んだ声。朔弥は弟に感謝した。 「清子。他に俺にして欲しいことはないか」 真剣な朔弥。清子は彼の手を取った。彼は握り返した。 「遠慮せず申せ」 「清子は。朔弥様のおそばにいて、それだけで十分です」 「つまらないな」 眉を潜める彼。清子は思わず微笑んだ。 「では。今夜こそニンジンを食べてくださいませ」 「おっと?ラジオの時間だ」 誤魔化す彼はそっと清子を抱きしめた。 「清子……後生だよ。他の願いにしておくれ」 「ふふふ。ふふふ」 頬を寄せ二人は笑い合った。二人の欲しいもの。それはここにあった。 二「八幡坂」完
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