御簾の先に、几帳の奥に人の心がある
大佐戸さんは群像劇の名手だと思います。 代表作『大人なのに走る』を大きな幹として派生した作品が数多くあり、この『知り合いのカルテ』もその中のひとつです。 全て単独でも十分に成立するにも関わらず、なぜ代表作を軸にしているのか。単なるスピンオフという言葉で括れない物語は、そこに群像劇の群像劇たる理由があると思うのです。 物語は主人公の倉科頼子が高校の演劇部で、先輩である松宮沙都と出会うところから始まります。十二単の衣装を纏い主役の少納言を演じる松宮の姿に圧倒され魅了されます。 中盤までは演劇部員たちとの人間模様が時に複雑に、時に素朴に語られていきます。また倉科の視点で、いくつかの謎も提示されていきます。 なぜ松宮は少納言を演じたかったのか なぜ松宮は佐竹に演劇を辞めるよう進言したのか なぜ松宮は桑野を信頼していたのか など。 謎は分からないまま、ただ倉科の印象が淡々と語られます。このことを印象的に与えてくれる表現があります。 「御簾の先に、几帳の奥に人の心がある」 見えたと思ってもそれはほんの一部であると。 そして全編通して流れるテーマとしてある「見えているものと見えないもの」。他人の思いの未知の面を、そのまま素朴に淡々と語っていくのです。 数年後に倉科が転職した精神科病棟に松宮が入院患者として登場します。このシーンは衝撃的でありながら、しかし過剰にドラマチックには語られません。だからこそ非常に心に迫ります。 ここで気が付くのです。 現実世界の光と影の構図が、まさに松宮が演じた舞台の華やかなりし「蘭省花時」と、老後の「廬山夜雨」との対比に他ならないこと。そこに心が震えたのでした。 老いた少納言に語り掛ける里の娘に倉科は自分を投影し、老いた少納言=松宮に彼女は言うのです。本当はひとりぼっちだった松宮に「あなたは輝かしく自分を生きていた」と伝えたかったのだと。 なぜ大佐戸さんはあえて派生作品として描くのか。 おそらく主人公たちが皆、特別なヒーローやヒロインなのではなく、すぐ身近にいる人たちだからではないか。 思いに苦しみ、時に無力でありながらも自分の足で人生を踏みしめて歩く。その力強い姿を、様々な主人公の姿で見せてくれるのです。 そうした揺るがないテーマがあってこその大佐戸さんの群像劇であると、この静かに感動を湧き上がらせてくれた作品を読んで思うのでした。
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こんなにも丁寧に読んでくれて(T_T) 自分でも「そうか!」と気付かされる指摘がたくさんあって、むちゃくちゃ嬉しいです。シバケンさんのレビュー自体が読み物として成立してるので、恐縮します🙇‍♂💦 ありがとうございました。書いて良かったです!
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