年越し煎餅

城と酒 城の語源には様々な説がある。 しかし私的に納得がいく説は、『城』は『代』からきたのだろうと思う。 特に山城は、『代』に通じる。 これは日本人の弥生時代からの流れであろうと思う。 『城』の内部は居住空間が狭く、交通の便が悪い。 当たり前の話だが、居住空間が広いと槍を振り回され、交通の便が良いと簡単に攻められる。 ある人は、城は防衛施設だと言うが、何に対しての防衛施設なのだろう? 敵からの防衛施設であれば、領地の端に造れば良いが、殆んどの場合は領地の中心に造り、特に山城であれば山の麓に領主の居住場として館を建てる。 弥生遺跡を見れば、遺跡の中心には社があり、側には食糧の倉庫がある。 この倉庫を『代』と言う。 正にこれは城にも当てはまる。 『城』は『代』であり、城は食糧庫なのである。 日本の山には各々、神様が住む。 だから山の頂上には決まって社がある。 この社は当然、山城にもあった。 山の神様の供物を集める為の施設。 それが『城』である為だ。 江戸時代になり、城が平野へ造られるようになって意味合いが変わったが、中世までは『城』は『代』であったと言える。 この城には籾の状態で保存されるが、余剰米が出ると様々な用途へと変わる。 それが酒である。 この酒を関東から都へ広めてブランド化した人物が居た。 その名は北条早雲だ。 北条早雲は、富士山からの伏流水でうるち米を育て、自身の居城である韮川城で清酒を作る。 酒造された曲輪の名から『江川酒』と呼ばれ、京洛の公家の間では人気の酒となった。 この酒は他の諸国の大名にも愛され、北条早雲並び、北条一族は関東に居ながら諸国の情報に精通していたと言われている。
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お久しぶりです(^^) 台風来ています~(^^;) 大丈夫ですか? 登呂遺跡には、防御柵がなく、 吉野ヶ里遺跡には、 二重の環濠に逆茂木とかが有る……。 神籠石(こうごいし)も、一部山城としての築かれたものも有るかという……。 弥生時代の場合、 戦国時代以降の城の意味に、分類出来るかは、 難しいけど、 吉野ヶ里みたいな造りなら、 広義の城なのかな~と、 こないだ読んだ本に有りましたが、 九州の高良山にもある神籠石が、版築の土塁で基礎を造られているとか、 山城説の紹介も、 同じ本に有りました!! 全部読みきれないうちに、 図書館の返却日になり、 たまたま先に読まないといけない本があっ
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御無沙汰しています。 流石は良くご存知で♪ 台風は寝付けないほど煩かった位の被害です。 住む場合は癖で地名や古地図で調べてから決めているので災害の危険に遭ったことがないのは、有り難い限りです。 さて、神籠石の山城説と『城』の城塞説の問題で共通しているものは、『水利』です。 要は飲み水を得るに不便な場所に籠っても防衛に役立つのか? 特に数百の兵の飲み水を確保するのに湧水で供給可能なのか?ですね♪ 仮に防衛施設であれば、その城に籠れる兵数は得れる水の量で決まってしまいます。 これを戦国時代に様々な証明がなされました。 それが『白米伝説』です。 要は白米を水の様に城外の敵に見せる行為。
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