愛姫

こんばんは。 久しぶりに、東野さんの作品を読ませていただきました。 東野さんの描く世界は身近で、それでいて空想のようで、そして何より引き込まれるので読んでいて悲しくなります。 どの作品も好きなのですが、今回、レビューを書くに至ったのは『或る朝(それは今日かもしれない)』が、染みたからです。 一連から、もう悲しい。 カップの底に溜まった溶けのこり (そろそろ家を出る時間だ) それはザラリとしたコーヒー 失くした定期券は今日もなかった 先日、いつもは飲まないコーヒー系統の飲み物を口にしたかもしれない。 そんな日常で、いろんなものの受け取り方は変わってくるのです。 溜まった溶けのこりが、失くした定期券が、私の心で、どうしようもなく、日常から落ちたくなるのです。 カッコの中の世界が違うのがいいですね。 東野さんはスパイスのようにカッコを使われるので、作品がとても引き締まるように思えます。 タイトルも、好きです。 寂しさは見えないけれど 僕の朝はきっとこんなもんだろう ベーグルを焼くくらいの暇が欲しい レタスを挟むほどは必要ないから 二連目で、ため息をこぼしてしまいました。 それはきっと絶望ではなく、淡いもの。 何故ベーグル。 何故レタス。 そのチョイスが私からヒトを引き出す。 書き留めて手元に置いておきたいくらい好きです、この3、4行の言い回し。 ベーグルを焼くくらいの時間だけでいい。 レタスを挟むほどは必要ない、なんて。 ほんとにそう。 レタスを挟まないのですから、できたのはプレーンのベーグル。 くるみが入っているかもしれない。ほうれん草が練りこんであるのかもしれない。 でも、プレーンのベーグルであって欲しいです。 理由はよくわからないけれど、そう思ったんです。 これ以上は長くなるので割愛しますね。 いつかすべての詩についての感想をぶつけたいです。一方的に。笑 なんだか読み返してみると、ラブレターのようですね。笑 しょうがないです。 好きなのですから。
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