野井田 区論

<introduction>  小説と芸術は、やはり本質的に異なるものではある。絵は見るものだし、音楽は聴くもので、本は読むものだ。  しかし、とある作品に影響を受けた人間が、自分の最も得意な表現媒体を用いてその感動に報いようとするのは自然なことだし、その心意気はどこか胸を踊らせる。  そう、これはそういう類いの、「絵画を読む」物語だ。 <information>  『記憶の固執』というタイトルと、タグに付けられた「ダリ」からもご想像いただける通り、この作品はシュールレアリスムの巨匠、サルバトール・ダリの『記憶の固執』(物干し竿に焼く前のピザを掛けたような時計の描写が特徴的なアレです)という絵が関係している。  旺文社の世界史事典(三訂版)を開いてみると、シュールレアリスムとは :WWⅠ後、ダダイスムに協力していたフランスの詩人ブルトンの「シュールレアリスム宣言」刊行によって始まった新芸術運動。 :ブルトンは「宣言」の定義で「理性によるいっさいの制約、美学上、道徳上のいっさいの先入観を離れた、思考の書き取り」と記している。フロイトの影響を受け、精神に内在する夢ないし潜在意識の世界を探求して、未知の美や真実を発見しようとした。  とのこと。シュールレアリスムはなにも絵画の世界のみならず、詩や文学、果ては映画など他分野にも広く影響を与えている(ダリも『アンダルシアの犬』という映画の製作に携わっている)。 <intterpretation>  『記憶の固執』というタイトルですが、物語の構造自体はシュールレアリスムを受け継いでおらず、そこは少し残念。あくまで語りが理知的である限り、どうしても幻想的な世界観には落とし込み辛い。  ただ、それはつまり単に僕の趣味であって、この作品の非ではない。というのも、この作品は著者の実話をベースにした物語であるそうで、立ち顕れる郷愁や喪失感は確実に「今、そこ」にあるものなのだ。  そういう意味で、物語としては文句なし。もともと書こうとしていたものがシュールレアリスムを指向していないからだ。  恐らく、自らの経験を物語として立ち上げるにあたり、ダリの絵から受けたイメージを装飾に散りばめたのだと思う。  だからこそ、何よりもこの作品に如実に描かれているのは、シュールレアリスムのような狂気の夢幻的な世界ではなく、立ちすくんで叫ばずにはいられない、どうしようもない現実の世界の方なのである。
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