僕も小学生の頃に九官鳥を飼っていましたが、母親が籠の掃除をしている時に、 風呂場の窓の隙間から逃げ出してしまった。 主人公のビルボクレイと同じように、あの九官鳥は自由を求めていたのだろうか。 それとも、九官鳥の世話をするのが嫌で、母が「逃げた」と口実を付けて逃がしたのか。 現実的には後者なんだけど、前者であって欲しいと願ってしまう。 ビルボクレイが階段で発見された時、下僕=ことりや鳥天さんは涙を流していた。 「雀の涙」「カラスの行水」と云う諺があるように、鳥は少ないことの比喩にされるが、 大粒の涙を流したことりや鳥天さんの感動は物凄く大きかったに違いない。 花鳥風月という言葉があるが、最近は世界だけでなく小説でも自然が無くなっている。 台詞だけの小説が増えているのは、人間が自然を蔑ろにしている証左ではないか。 私は夏目漱石の「三四郎」を読んだ時に初めて「白い雀」として認識していた鳥が、 鶺鴒《せきれい》と云う名前だったのを知ったことがある。 昔の小説には自然が溢れていた。 ことりや鳥天さんの作品を読むと、花鳥風月の大切さを認識させられる。
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