純文学作家が書く魅力的な小説 その二
 ただし今回、作者は新しい試みをしている。  小夜子はかの子や津曲、第二部の一の主人公であった千春や寿司屋夫婦の思い出や彼らとの交流を淡々と語るように見えて、実際には、ごく平凡に学生生活を過ごしてきた小夜子にかすかに芽生える変化の兆候を暗示して終了する。  その変化の兆候は「成長」と解釈することも出来るし、全く別の甘美なものになり得る可能性をも秘めている。  それだけにこの小説は、単なる周囲の人物の思い出話を超えて、今後への期待、あるいは不安を掻き立てる私小説と捉えることも出来るだろう。  純文学の定義はいろいろ言われている。  読者の立場から申し上げれば、文章を目で追えば結末に行き着くのが、自分も含めて多くの投稿者が執筆しているライト系の小説。  文章を頭で読み解き、主人公や事件の結末を読者自身が探し当てるのが純文学といえるかと思う。  従って結末は、読者の数だけ違っている場合もあるだろう。  純文学を読むということは、作者のテーマや思想、信条、思いなどに、どこまで迫れるかという知的な逃走でもある。  自分が今回の主人公の小夜子に感じた変化の兆候という結末が正しいかどうかは、恐らくこれから展開されるシリーズの中でヒントが与えられるものと確信している。  この小説は非常に巧い文章で書かれており、じっくり読書を味わうという点で最高の時間を提供してくれる。  多くの人に読まれて頂きたいと願ってやまない。
1件

この投稿に対するコメントはありません