たすう存在

湿度と冷たさと……
湿度と冷たさ、美しい言葉に惑わされてはいけない。 本作は紛れもなくホラー小説であり、此処に描かれている事象はおそろしく、そしておぞましい。 終盤になって明かされる答えは、我が国古来よりの妄執の結実が戦争の道具に使われたという事実です。 読み終えて、ふと思い出して確認をすると、タグ回収のための部分もあったのですが、それすらも自然に溶け込んで美しい世界を構成していました。 最初は、詩的な美しさに主眼を置いて言葉や描写が選ばれているよう感じたのですが、よくよく読み解くとそれらのほとんどは伏線、あるいは必要な情報の明示という必然のもとに書かれているのです。 友を失った話をしようと思う、と始められた章はその友人のぼやきで閉められます。 若水(変若水?)、補陀落からのマレビト、丹 最後まで読み進めなくても、主人公と彼の友人南との身に何が起きていたのかはすでに語られていたのです。 そして不死者たる彼らの身の行く末と、高野山に御座す聖人の正体が何より恐ろしい。 事実、空海は即身仏ではなく今も生きているとされているのですが、もしこの作品で描かれているような形なのであれば、たしかに生きているといえるでょう。 南の言葉として語られるコケについてのウンチクでは、コケの名を冠してはいても、バクテリアや最近である場合、古来からコケと認識されているものでも、己の意志をもつかのような動物性粘菌である場合があるとのこと。 その方法ははっきりとは描かれてはいませんが、本作で描かれる不死者とはコケ様の細菌の感染者であり、それは人為的に感染させることができるものであると読めました。 感染して肉体が変性して不死となれば、自我のコンタミネーションが起こるなどして精神も元のものを保つことは難しくなっていくのでしょうか。 そうして1200年もの時をすごせば、自我は崩れ去り、粘菌の意志の方が主となるのかもしれません。 以上のような解釈をした時、本作がおそろしくおぞましいものであるとすることに反論は起こりえないでしょう。 ですが、それと同時にやはりここにある湿度と冷たさは、幽玄とも呼べそうに美しいのです。 以上、作品解釈まがいのようなものをしたためはしましたが、誤犯ならぬ誤謬でなければいいなと願うばかりです。 美しく恐ろしく、そして読み解く楽しみもある傑作をありがとうございました。
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多数さん、細かい部分まで読んでくださってありがとうございました。 あれこれバレてて、ヒュッとなりました。 タイトルで空海は出そうと思って決めていたのですが、苔で熊野に引っ張られ、右往左往して和歌山のるるぶを片手になんとかまとめました。 縛りイベントでしか書けない話になったと思います。今回もまた、良い体験をさせていただきました。 ありがとうございました。

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