sandalwood

惹かれ合う感性の糸
イメージというのは人それぞれ千差万別で、正解もなければ不正解もない。 “感受性”、あるいは“感性”の豊かさがイメージへとつながり、人生を色彩豊かなものとするのだろう。 本作に登場する「春音」と「梨沙」は、感受性や感性、特に“感性”の豊かさに秀でている。常人には理解のしがたいイメージで他者を捉え、味得するのだ。 しかし、そうした豊かさが常にプラスに働くかというと、そうとは言い切れないのが世の中である。「意味がわからない」「頭がおかしい」といった風に解釈し、個人の自由なイメージを切り捨てる人々もいよう。 春音と梨沙は、それぞれマイノリティーな感性を持っている。 二人に共通して言えるのは、自分以外の他者に対するイメージは実に具体的で、かつ確固たるものであるということだ。それは想像力の豊かさであったり、これまでの自身の経験などから他者へのイメージを構築していくスキルに長けていたりする為だと思う。 特別な感性を持った二人の少女の絆を描いた物語として、短編ながらも読み応えのある作品だ。所々の情景描写なども秀逸で、作者の感性の豊かさも垣間見える。 ここからは推測が含まれるが、梨沙は作中で、“自分の味”だけがどうしてもわからないと言った。 作中に記載がないが、仮に春音が自身の音について尋ねられたとしたら、すぐには弾くことができないのではないかと思う。 他者のことはわかるのに、自分のことになると明確な答えが出せないのは何故だろうか。本作を読んで強く考えさせられた。 おそらく他者へのイメージも一定ではなく、長いスパンで考えると変化してゆくものだ。 最初に感じた印象と、関わりを経て数ヶ月後に感じる印象とでは、同じ相手でも異なるだろう。そうしたイメージの変化が生じるのは、他者を五感で感じ取ることができるからだと思う。 しかし、自分で自分を観察することはできない。鏡で確認したところで、静止している一場面を見るのみだ。 直接は見られない。そこでわかったつもりになるか、あるいは何もわからないと感じるか、もしくは本作のように、他人に教えてもらうのか。どれを選んでも間違いではないだろう。 それでも、春音や梨沙のような豊かな感性を持った人からのメッセージは、真摯な気持ちで受け止めればきっと心に沁みるに違いない。
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改めまして、レビューをいただきありがとうございます! 春音と梨沙のそれぞれを丁寧に深掘りいただいて、大変うれしいです。 作中では深く切り込めなかった「感性の豊かさ」が招く弊害や梨沙の「自分だけが分からない」ことについても汲み取っていただいており、書いた本人が新たな発見にいたっています。 自分自身というのは、どこまでいっても他人として扱うしかなくて、それを考えている自分という存在を考察する術がない… そのために、きっと他者から見えた自分を鏡のように見るしかない。 >作中に記載がないが、仮に春音が自身の音について尋ねられたとしたら、すぐには弾くことができないのではないかと思う。 たしかにそ

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