有栖川 露陰

こんにちは。 いつも、拙作に賜る御厚恩に深く感謝しております。 疲れすぎて、書きたくても書き出せないので、呟きの場でリハビリにつらつら参りたく候。 「不都合な真実」という言葉があります。 元ネタはゴア氏のあれの筈ですが、とにもかくにも頻繁に週刊紙とかの見出しに使われる頻出ワードです。 ヤフーでいろいろニュース物色してるとありとあらゆる「不都合な真実」が舞い踊っております。 実は私、なぜだか「不都合な真実」というワードが大嫌いなのです。 この全く理解不能な怒りが何に由来するのか、飯を食いながら、しょっちゅう自問自答を繰り返しています。 高らかに「真実」を掲げて不安を煽る悲観論的売文(とても偏見に満ちた、世のジャーナリスト様、ライター様に失礼きわまりない物言いです)と感じられて嫌いなのか? それとも「真実」はいつでも不都合なものだと思っているから、わざわざそんな声を大にして得意気に「不都合」を主張されるのが嫌いなのか? と色々考えてみましたが、自分なりに納得できた答えはこうです。 「真実」はいつでもどこでも、誰かにとっての「不都合」ではある。 しかし、この「不都合」が万人共通の「不都合」であるわけはない。 誰かにとっての「不都合」が誰かにとっての「好都合」であることもありえる。 その「不都合」に勝る不幸は「不都合」とやらに誰も気付きすらしないことではないか。 ならば「不都合」は「不都合」どころか「好都合」でもありうるのではないか。 それに「真実」は立場によって無限に変容する曖昧なもので、唯一不変万人共通の「真実」が在ると信ずるのはどうにもピュアすぎるように思える。 結局、信じたいものしか信じられない人間の前では幾千億もの「真実」が存在しうる。 ゆえに、唯一不変万人共通の「不都合な不都合」というものは儚い幻想にすぎない、と私は信じている。 だから、声高に「不都合な真実」などと言われると反発を感じるのだろう。たぶん。 理路整然とはいかぬ、こんなよしなしごとでも書き散らせば頭がクリアーになります。 来るめでたい天長節。 よりよいものが書けるよう頑張ります!
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