ちょっと難しいかも。 現代において、人の自然で原初的な美しさを描くには、非合法を描くか、あるいは文明の外側を描くかしかないのかな。 これは社会学の大命題であるけれど、システムが大きくなりすぎると、それに包摂される人間はちっぽけになる。 死はただ病床で次々に処理されるだけのものになって、ヴェーバーが予見したように、生活さえも生産関係というシステムの中に取り込まれてどんどん人と切り離されていった。 だから、現代における人間の美しさを突き詰めていくと、必ずと言っていいほど(現代美術がそうなっていったように)「人間」と「巨大システム」の対立構造が生まれてしまう。 ただ、この「人間性」とか「躍動」に欠乏した時代だからこそ、それをどうにか見出して表現するのが表現者の“一つの”宿命であって、『真剣な小説』の役目はまだ少しも、少しも終わっちゃいない。
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