読書感想文『思い出のエブリスタ作品』

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 読書感想文でも作文でもそうなのだけれど、最初は必ず過去の捏造エピソードから始めるようにしている。  内容はなんでもいい。どうせ嘘だし、誰も真偽を確かめようだなんて思わない。ただどうせならできるだけ突拍子もない話がいいなと、そう私に吹き込んだのがMという男だ。当時三十代の公務員で、顔はそんなでもないけど体格がいいから精悍に見えて、そして当時まだ十代の子供でしかなかった私と、誰にも言えない秘密のお付き合いをしていた。実際は言うほど秘密でもなかった。なにしろ他でもない私自身がそこらに吹聴して回って、しかもその内容は決まって愚痴か猥談の類、それでも建前上はあくまで大っぴらにはできない関係というかまあ要するに不倫だ。妻子とかいた。会うたび赤ちゃんの写真を自慢げに見せてきて、それをにこにこ笑って「ほんとだ〜かわい〜」とか必死に相槌打っていた私は、もう単純にものすごい馬鹿だったのだと思う。  世に言うところの若気の至り、まあみんなこんなものよね十代の頃って、と、そんな雑な一般化では到底フォローしきれないレベルの本物の馬鹿だ。歳がバレるけど当時は「援助交際」という語の華やかなりし頃で、実際その単語を耳にしない日はなかったくらいで、だから当時十代の少女はそのほとんど全員が年上の男性と金銭込みのお付き合いをしていたと、私ひとりがそう頑なに信じていた時代だ。実際は違った。当たり前だ。日々の他愛もないお喋りがすべて妻子ある男性との生々しい情事の話題になってしまう、そんな馬鹿は今思えばクラスに私ひとりだけで、にも関わらずみんな言わないだけだと信じて疑わなかったのは、やっぱりどう考えてもテレビのせいだと思う。  テレビばかり見てると馬鹿になる、なんて、今更そんな古臭いことを言うつもりはない。テレビに馬鹿を生み出すほどの創造性はなくて、ただ馬鹿にテレビを与えると取り返しのつかないことになるってだけの話だ。具体的にどう取り返しがつかないのかはご覧の通り。貞操観念含む社会常識の一切が欠落した嘘つきモンスターが生まれて、現に読書感想文の書き出しにすら事実と言えるところがひとつもなくて、ああこんなことなら私も本でも読んでたらよかった、と、今そう思えるのはきっと幸せなことなのだと思う。  あの頃に私に読ませてあげたい、そんな物語に出会えるのは幸運なことだ。  私がこの物語を、『NiNa ~ニナ・ヒールドと空飛ぶ箒~』を読んで最初に思い浮かべたのは、まさにあの当時の思い出たちだ。学生の頃。Mの娘ちゃん自慢にうんうん頷いていた頃。いや浮気相手に対して幸せな家庭自慢するかね普通と、そんな愚痴が大人の証拠だと本気で思い込んでいたあの頃。馬鹿だと思う。私ならこんな馬鹿の相手はまっぴらごめんで、だから誰もが半笑いの顔で適当に聞き流していた中、唯一「ほんとだね〜」と真剣そのものの表情で聞き流してくれた、クラスメイトのユカリのことが真っ先に浮かんだ。  ユカリは私に読書を勧めてくれた女だ。文学好きの優等生で、ふんわりした笑顔と透き通る声が魅力的なキレイ目美人で、そんな彼女に影響されたのはきっと私だけではなかったと思う。私たちがいたのは工業系の学校で、それも電気電子系の学科だったから周囲はほとんど男だらけで、だからクラスに六人しか女子がいない中、ひとり明らかに格上のオーラを放っていたのがこのユカリという女だ。私含め他五名がどう見てもごく普通の田舎娘でしかない中、彼女だけがまるで異世界から降って湧いたオーパーツのように見えた。女子六名は彼女を中心にすぐ仲良くなったし、また男子からの信頼も厚かった。つまり人付き合いの達人みたいな人間なのかと思えば、普通に成績まで優秀なのだからもう言えることがない。天は二物どころか三物四物をも彼女に与えて、いやあ完璧な人間というのはいるもんだなあと、あれから長い年月を経た今でさえ思う。すごいことだ。今の私からすれば彼女とて、たかが十代の子供でしかないはずなのに。  こういう人間が身近に、それも多感な時期に存在していると非常に面倒なもので、その当時のありとあらゆる美しい記憶、そのすべてが彼女に関連づけられてしまう。  私が学生の頃を振り返る時、どんな思い出の隣にもユカリがいる。私に強い影響を与えた、私が何度も真似した女。きっと私はユカリになりたいのだと、てっきりそう思い込んでいた十代の頃。実際は違った。私なんかがユカリになったら、そんなのはもうユカリと呼べない気がする。ユカリは私の儚い信仰の対象、つまりは私の神様だった。十代の頃、狭い教室の反対側、窓際の席には確かに神様がいたのだ。  『NiNa』は少女の物語だ。箒で空を目指す魔女のたまごの、その成長を描いた正統派のジュブナイル小説。舞台は魔法の学校で、そこでの成績に思い悩む主人公・ニナは、ある日ふとした事故をきっかけに自分の〝神様〟に出会う。この神様というのはいま私が勝手に考えた比喩で、実際には成績優秀かつ眉目秀麗な先輩、あるいは学校始まって以来の天才とでもいうべき存在だ。  率直に言ってこのニナと私、重なるようなところはほとんどないと思う。彼女は見知らぬ一個人としては大変好ましい性格の持ち主で、つまり端から眺めていると面白いしもちろん共感できるところも多いし、なにより気づけば応援したくなっていたりもするのだけれど、でも友達になれるかと言われると正直怪しい。まずもって向こうが本気で嫌がると思うし、できてもお互い適当な距離を保ちつつ半笑いで会釈だけするくらいの関係がせいぜいってところで、それでも——だからこそ私は彼女が好きなのだけれど——そんな彼女の隣、十代の頃の私が並んで見上げているのは、はるか上を飛ぶ彼女の〝神様〟の姿だ。  十代の頃、私が見上げていたものがそこにあった。姿形は違えど、いや名前も性格もまったくの別人なれど、でもあの日のそれと同じ信仰が文章の向こう、確かに存在しているのを私は感じた。古いスチール製のロッカーの感触と、部室プレハブ棟の蒸すような暑さと、雨の中庭の匂いとお昼時の売店周辺の喧騒、それにユカリの優しい声が次々脳裏をめぐって、私はあの懐かしい教室廊下側の席、ひとり静かに座っていた。一文字一文字を目で追うごとに、神様を見上げるニナの姿を思い浮かべるたびに、私はあの思い出の洪水に引き摺り込まれて、そこに見た景色はもちろん別々だけれど、でも私にはわかるのだ。そのやせっぽちの小さな魔女の、私と何ひとつ重なるところのない内気で頑固な少女の、おそらくは何度生まれ変わっても友達同士にはなれないであろう彼女の、その胸の裡に咲く小さな祈りの花が。大事な神様を見上げるとき、その過去に想いを馳せるとき、私たちは存在そのものが祈りになる。大袈裟な表現のようだけれど、でも私の神様はそう言っていた。あの頃の私に読ませてあげたい、そんな物語に出会えるのは幸運なことだ。  今までただの聖句でしかなったそれが、でもやっと私にも理解できた気がする。  ニナと出会って、私が本当に見つけたものの正体が理解できた。それを読ませてあげたいと思った瞬間、本当に見つけたのは〝あの頃の私〟の方だ。こういうお話を読ませてあげたいような、そんな少女として青春を生きていたこと。知らなかったはずはないのだけれど、でも見えてはいなかった。きっと神様が眩しすぎて、だって思い出の側には必ずそれがあって、だからそこに〝私〟を見つけることは、太陽の隣に星を見つけるようなものだ。  『NiNa』と出会って、私は真昼の空に輝く客星を見た。あまりにも個人的な読書体験で、なんの参考にもならないどころかもう適当に聞き流す以外にないと思うのだけれど、でも構わない。どうせ嘘だ。誰も真偽を確かめようなんて思わないだろうし、大体そんなのどっちだっていい。いっそ、本当にすべて嘘であってくれたらと思う。見つけた時点で満足した。だってどんなに美しくとも、現実の過去はただ振り返るだけだ。でも物語の中に彼女がいてくれるなら、私がユカリに見た輝きと同じものがあるなら、今の私にはそれで十分なのだから。 〈了〉 参考: 『NiNa ~ニナ・ヒールドと空飛ぶ箒~』 逢坂 新・著 https://estar.jp/novels/25288401
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