第114回 楠木正成とも足利直義ともまるで別次元の尊氏に挑み続ける時行が「父」の思いを身にまとい進む道とは…? 「三木一草」の最期と新田義貞の「!?」にも触れてみる?

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第114回 楠木正成とも足利直義ともまるで別次元の尊氏に挑み続ける時行が「父」の思いを身にまとい進む道とは…? 「三木一草」の最期と新田義貞の「!?」にも触れてみる?

 「インターミッション(intermission)」、すなわち、「❶休止,合間;中断(breakの上品な言い方)」「❷(劇場・試合などの)休憩時間,幕間(まくあい)」〔ジーニアス英和&和英辞典〕も、計4回で「終」となった『逃げ上手の若君』第114回ですが、成長した時行たちもラストで登場しました!   大人たちが争いをくり広げ、「南北に 帝が二人いる前代未聞の事態」になったのは、中先代の乱の収束からはわずか二年と数か月のことでした。  第112話「インターミッション②」以降の出来事を、鈴木由美氏の『中先代の乱』を参考に、時系列で示してみます。  ・1336(延元元・建武三)年3月 筑前多々良浜の戦い  ・同年5月25日 摂津湊川の戦い  ・同年8月 足利尊氏は、光厳上皇の弟豊仁親王を天皇の位につけた(光明天皇)  ・同年10月10日 後醍醐天皇と尊氏の和議が成立し、後醍醐が比叡山を降りて京に戻った  ・1337年12月 軟禁状態に置かれていた後醍醐は、大和国吉野に入った(南朝の成立、南北朝時代の始まり)  そして、1338(延元三・暦応元)年8月11日 尊氏が北朝から征夷大将軍に任じられ、時行が「初めて政権を選択」する流れとなるので、ラストの時行たちはおそらくは十三、四歳に成長した姿なのではないかと思います。  亜也子は成長が早かったので背丈が少し伸びたかなくらいの変化(および玄蕃は、お面をかぶった頭しか描かれていないので詳細は不明)でしたが、時行と弧次郎、雫は大人びたのがわかりますね。髪が伸びて女性らしく成長した雫ですが、目元がどことなく頼重を思わせます。  頼重と言えば、時行が髪を結っている飾りと、腰の飾り紐(リボン)は、頼重が身に着けていた物ではないかと思いました。第100話で、正宗の出て行った奥さんの着物を秕のために亜也子と雫が仕立て直していましたから、時行の着ている神官風の白衣もまた、頼重の着物を時行用にアレンジしたのかもしれません。ーー頼重の形見の数々を時行は身にまとい、「父」の思いを引き継いでいる表れなのではないかと想像しました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  さて、時行と逃若党がどこに潜伏しているのかなども気になるところなのですが(断崖絶壁のような場所にあばら家が描かれていますよね…)、それは次週以降の展開に期待するとしまして、第114話で登場した武将や出来事について見てみたいと思います。  「七度生まれ変わっても必ずや… 逆賊尊氏を殺しに参るよ」  ※逆賊…主君に反逆した者。  「ぷふっ」と噴き出し、「わかったわかった」と、穏やかな表情で楠木正成はこう述べたのです。  これには、『逃げ上手の若君』で描かれた「中先代の乱」の諏訪頼重と同じくらいの衝撃を私は受けました。このセリフというのは古典『太平記』において、正成の無念、そして、怒りや恨みがぶちまけられる有名な場面でのものだからです。  楠の一族宗徒の者ども十六人、手の者五十余人、思ひ思ひに並び居て、押膚脱いで念仏申し、一度に腹をぞ切りにける。正成、正季兄弟も、すでに腹を切りけるが、正成、舎弟正季が顔を打ち見て、「そもそも最後の一念によって、善悪の(しょう)()と云へり。九界の中には、いづこをば御辺の願ひなる」と問ひければ、正季、うち笑うて、「七生(しちしょう)までも、たただ同じ人界同所に托生(たくしょう)して、つひに朝敵をわが手に懸けて滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成、よにも快げなる顔色にて、「罪障はもとより(はだえ)に受く。悪念も機縁の催すによる。生死(しょうじ)は念力の()くに(したが)ふ。尤も(もっと)ぶ処なり。いざさらば、須臾(しゅゆ)の一生を替へ、忽ちに同じき(しょう)に帰つて、この本分を達せん」と契つて、兄弟手に手を取り組み、差し違へて同じ枕に臥しにけり。  ※宗徒(むねと)…多くの人々の中で中心となる者。おもだった者。  ※押膚(おしはだ)脱いで…帯から上の衣服をぬいで、肌をあらわす。  ※正季…正成の弟。上記の引用元である岩波文庫『太平記』では「正氏」となっていたが、すべて「正季」に改めた。「正氏」は、正季の別名や正季の子の名前とも言われるが、はっきりしたことはわかっていない。  ※最後の一念によって、善悪の(しょう)()と云へり…臨終の一念次第で、来世での生まれの善し悪しが決まるという。  ※九界(くかい)…迷いと悟りの世界を分けた十界のうち、仏界を除いた残りの世界。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上(以上が迷界)・声聞・縁覚・菩薩(以上が悟界)。迷界の六道を衆生は輪廻する。  ※御辺(ごへん)…(二人称。同輩や、やや目上に対して用いる)そなた。貴公。貴殿。  ※七生までも、たただ同じ人界同所に托生して…七たび生まれ変わっても、同じ人間界に生まれて。七は、六道輪廻を超える数で、未来永劫の意。  ※滅ぼさばや…滅ぼしたいものだ。  ※罪障はもとより膚に受く。悪念も機縁の催すによる。生死は念力の曳くに順ふ。…罪業は肌身にしみ込んでいる。煩悩も時と場合による。来世は最期の一念で決まる。  ※須臾の一生を替へ、忽ちに同じき生に帰つて、この本分を達せん…つかのまの一生をおえて、すぐさま人間界に帰ってこの念願を遂げよう。  この壮絶な、弟の正季と刺し違えて発した正成の最後の言葉を、子どものように無邪気な〝正成にまた会いたい〟という尊氏の思いに応えた発言に変えてしまうとは……松井先生こそ、どこまで「逃げ上手」なのでしょうか。常識や慣習にまるでとらわれることのない発想には、次から次へと驚かされるばかりです。  忠義に死すとも、どこまでも懐の広い人間として死んでいった『逃げ上手の若君』の楠木正成は、令和にふさわしい「英雄」像だと思いました。  一方で、尊氏には一瞬ほっこりさせられたものの、私のような凡人にはやはり〝恐怖〟しか感じられません。「全てを宿せる巨大な器を持っているから… 足利尊氏は最強なのだ」という客観的な評価は、やはり「人並み外れた英雄」である楠木正成だから下せたもの(正成が尊氏と対等であるがゆえに引き出せた尊氏の一面でしかない…)ではないでしょうか。ーーそれは、正成の死後に尊氏が料理をねだりにやって来たとして、正成の奥方の立場になって考えてみればわかるかと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  「言う通りだ西園寺卿 短い栄華だった」  モブキャラの名和長年ですが、隠岐を脱出した後醍醐天皇を迎えたのが長年とその一族でした。名和の港にたどり着くいてすぐに、千草忠顕が探し出した武士であったということが、長年の運命を変えてしまったとも言えます。 第31回 ひっかかるのは麻呂(まろ)だけじゃない! 後醍醐天皇を〝背負って〟立ち上がった一族、旗で敵を欺く! https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=32   第58回 名和長年に結城親光ら「三木一草」とは…? そして、西園寺公宗と北条泰家の後 https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=59  『太平記』では、京に向かう軍勢を見物している「女童部(をんなわらんべ)ども」が、建武の新政で後醍醐天皇にひいきされた「三木一草」の「三人は討死して、伯耆守一人(いちにん)一人残りたる事よ」と噂しているのを聞き、自分一人が生き残っているのを「云ひ甲斐(がい)なし」と思われているのだと受け取ります。  ※三人…結城親光、楠木正成、千種忠顕。  ※伯耆守(ほうきのかみ)…名和長年。  ※云ひ甲斐なし…ふがいない。  「今日の合戦に、御方(みかた)もし打ち負けば、一人なりとも引き留まつて、討死せんずるものを」と独り言して、これを最後の合戦と、思ひ定めてぞ向かひける。  戦場へとゆっくり歩んで行く長年の背中には、たとえモブであっても、分不相応のひいきがあったとしても、一族を率いる長としてとったこれまでの決断や人生の重みがあったことを思わずにはいられません(私は鳥取に住んでいたこともあり、名和長年には親しみを感じているので、ちょっとだけひいき目です…)。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  久々の登場の小笠原貞宗の矢を「あの弓は俺以外防げない」と言って退いた新田義貞ですが、「!!」や「!?」の時は「?」とは違うテンションのようです(笑)。  義貞も貞宗も『太平記』においては戦功や見せ場がおおいにあるのですが、何かの機会にまた触れることができればと思います。ただ、後醍醐天皇が「尊氏に降伏」した際に、義貞と一族を切り捨てたため、トラブルが発生しています。興味のある方は、本シリーズの以下の回をご覧になってください。 第27‐(2)回 古典『太平記』に見る〝首だけ男が大暴れ〟と〝武士のメンツをつぶしたら…〟エピソード(下) https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=28  また、第114話の最後には、またしても足利兄弟の性格が見事にコントラストをなしていました。  「やった 見張りの手間と費用が浮いたぞ!」  「マジかこの兄上」  実はこれ、ベースとなっている尊氏の発言が記録として残されています。『梅松論』という歴史書に、尊氏が「今ノ出御ハ大儀ノ中ノ吉事也」と言って喜んだとされているそうです。  一応、その前後の文脈も踏まえての解釈してみると、倒幕の際には流されていた隠岐から脱出した帝の動きが鎌倉からは見えにくく、幕府が大変な目に遭わされたけれども、今回は逃げたといってもどうせ京周辺だろうし、いずれ落ち着き先も知れるだろうから結果オーライだというのです(もしかしたら、「見張り」をした人間の責任が問われないようにもした…?)。  松井先生は「大儀」を、「経費のかかる事柄。経費を多くかけること。」〔日本国語大辞典〕ともとらえて、かなり〝現金〟な尊氏を直義と対比させて笑いをとっていますね。  「探せ! 逃がせば厄介だ!」と慌てる、常識人の直義が少し気の毒な気もします(これでよく兄弟仲が良かったなと不思議に思いますが……このあたりもいずれ、『逃げ上手の若君』が描いてくれそうな期待があります)。  ただ、『太平記』では、幽閉場所を飛び出した後醍醐天皇は、謎の発行体に導かれて吉野まで逃げ延びています。尊氏に負けず劣らずの〝人外〟の能力をお持ちなのですよ(笑)。この帝と……おっと、この先はネタバレになるので、続きはまた次回以降にしたいと思います。 〔鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、『太平記』(岩波文庫)を参照しています。〕
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