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【3】罪の在り処
数えれば、早八年前である。
高峰がその頃はまだ医科大学の学生の頃。
ある時俺は、高峰と共に、小石川の植物園を散策した。
五月五日、ツツジの花が盛んな日であった。
彼と共に並んで歩き、芳香を放つ花や草の間を出たり入ったり、園内の公園の中の池を巡って、咲き乱れる藤の花を見たりした。
歩みを転じて、少し離れたツツジの丘に上ろうとして、池に添って歩いている時、少し離れた所から来る、ひと群れの人々を見付けた。
ひとり洋服のいでたちをして煙突帽を被る髯のある男を前衛にして、中に三人の婦人と一人の15、6の少年を囲んで、後からもまた同様の男を連れている。
彼等は貴族の御者である。
中にいる三人の婦人達は一様に奥深い日傘を差し、裾捌きの音を響かせ、するすると優雅にこちらに歩き来る。
すれ違いざま高峰は、思わず後ろを見返した。
「見たか」
私が訊くと、高峰は「ああ」と頷いた。
そして丘に上ってツツジを見た。
ツツジは美しかった。
だが、ただ赤いのみ。
傍らのベンチに腰掛けた、商人風の若者達がいた。
「吉さん、今日は良いことをしたなあ」
「そうだな、たまにはお前の言うことを聞くのも良いかな。
浅草へ行って此処へ来なかったら、見られるもんじゃなかったっけ」
「何しろ三人とも揃ってらあ、それにあの少年ときたら。
どれが桃やら桜やらだ」
「ひとりは丸髷じゃないか」
「どの道、関わりになれるんもんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、それこそ何でもいい」
「ところであの様子じゃあ、是非、文金高島田とくるところを、銀杏とお願いしたらどういう気分だろう」
「銀杏、納得いかないか」
「ああ、わりぃ洒落だ」
「何でも貴人方がお忍びで、目立たぬようにという考えだ。
な、それに、真ん中のが水際立っていたろう。
残りひとりが影武者みたいなもんだ」
「それでお召し物は何だと思った」
「藤色だと思ったよ」
「え、藤色だってだけじゃ本読みが納得しないぜ。
足元みたいなもんでもないじゃないか」
「眩くって項垂れたね。
自然と頭が上がらなかった」
「そこで帯から下に目をつけたんだろう」
「馬鹿を言うなよ、勿体無い。
見ても何だと分からない間だったよ。
ああ、残念だ」
「あのまた、歩きぶりと言ったらなかったな。
唯もう、すうっと霞に乗って行くようだっけ。
裾捌き、着物の褄の持ち方までが何ていうやり方で、成る程と見たのは今日が初めてだぜ。
それにあの少年の顔立ちと立ち振舞い。
どうもお育ちはまた別格違ったもんだ。
ありゃもう自然に、天然の雲上人になったんだな。
どうやったって下界の奴等が真似しようったって出来るもんか」
「酷く言うなよ」
「本当の話、俺はお前も知っての通り、廓を三年間、金比羅様に誓って断っていたというもんだ。
ところが、何のことはない。
御守りを掛けて、夜中に土手に通ってるじゃないか。
バチの当たらないのが不思議だよ。
でももう今日という今日は悟ったね。
あの醜い女どもと、どうにもなるものか。
見ろよ、あれあれ、ちらほらと、そこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。
まるでほら、ゴミか、蛆が蠢いているように見えるじゃないか。
馬鹿馬鹿しい」
「これは厳しいな」
「冗談じゃない。
あれ見てみろよ。
やっぱりほら、手があって、足で立って、着物も羽織もちゃんと着こなして、同じような蝙蝠傘で立っているところは、恐れながらこれも人間の女だ、しかも女の新妻だ。
女の新妻に違いはないが、今さっき見たのと較べて、どうだい。
まるでもう、くすぶって、何て言うか汚れ切ってるよ。
あれでも同じ女だなんて、聞いて呆れるぜ」
「おいおい、どうしたんだよ、大変なことを言い出したな。
でも全くだよ。
俺もさ、今はもう、ちょっとした女を見ると、ついその何だ。
一緒に歩くお前にも、随分迷惑をかけてたが、今のを見てから本当に胸がすっきりした。
何だかせいせいとした、これからは女はもういい」
「それじゃあ生涯結婚も出来ないぜ。
『源吉とやら、お前様は』とあの姫様が、言う筈も無いからな」
「バチがあたるぜ、考えもしないさ」
「でも、『あなた様ぁ』と来たらどうする?」
「正直なところ、俺は逃げるよ」
「本当に?」
「え、お前は?」
「俺も逃げるよ」
と二人は目を合わせて、しばらく黙った。
「高峰、ちょっと歩こうか」
俺が高峰と共に立ち上がって、あの若者達と遠く離れた時、高峰はかなり感じ入った顔色をして言った。
「ああ、真の美の人を動かすこと、あの通りさ。
君にはお手のものだ、勉強するがいい」
そして、ポツリと言った。
「あの少年と目が合った…あの瞳…あの顔…あの姿…」
「少年?あの婦人達といた?」
「いや、何でもない」
高峰はそれきり黙った。
俺は画家であるが故に動かされはしない。
歩くこと数百歩、楠の木の大樹のうっそうと生い茂った木の下の影で、やや薄暗いあたりを行く藤色の衣の端が、遠くからチラリと見えた。
園を出ると身の丈高く肥えた馬が二頭立っていて、磨り硝子の入った馬車の側に、四人の馬の世話や口取りをする者が休んでいた。
その後、八年を経て、病院でのあの事があるまで、高峰はあの令息のことについて、俺にすら一言も語らなかったけれど、年齢においても、地位においても、高峰は妻がいておかしくもない身にも拘わらず、家を取り仕切る夫人もなく、しかも彼は学生であった頃から、謹厳な品行方正の人であった。
俺は多くを言うまい。
青山の墓地と、谷中の墓地と所は違うが、伯爵令息の死んだ同じ日に、高峰はあのメスで自害した。
語らず俺は考える。
天下の宗教家、彼等に罪悪はあるだろうか、天に行くことが出来るだろうか。
~fin~
あとがき
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