ナオは家族とともに(En famille)
貴種流離譚、という物語の類型がある。 「小公子」や「小公女」などがその典型だろう。高貴あるいは富裕な身分の出身ながら、本来の環境から離れて育つ主人公の物語だ。 間違いを恐れずに言うと、ナオは現代の貴種流離譚のヒロインである。ひねくれた見方かもしれないが。 渋谷区の松濤といえば音に聞こえた高級住宅地であり、そこで生まれ育ったナオが属する場所は、川向こうの下町ではない。 賢い彼女は父の失職と同時に、それまでの生活を永遠に失ったことを理解したはずだ。それでも彼女は諦めなかった。新しい環境に適応しても、けっして馴染まず、いつかはそこを脱出しようと目論んでいたのだ。 もし仮に、転校先でいじめに遭わずとも、父が存命でも、母がしっかりした人だったとしても、彼女はきっと松濤を目指したことだろう。 現代社会では、ただ機会を待っていても、向こうから手を伸べて迎え入れてくれることなどない。ナオが自ら最善手を選んだように、自力でそこへ至る努力と、その生活を得るに相応しい才覚を示す必要がある。 その為にナオは不断の努力を続けている。だからこそ、「落ちぶれても松濤マダムのつもり」でいる母親を嫌わないまでも、軽蔑しているのだ。 だが対照的な気質のふたりは、実は「現実を認めない」という点で、完全に共通しているように思う。私には両者の違いが、一方が積極的であるのに対し、もう一方が「自分を変えない」という消極的行動を取り続けている、というだけの違いに見えるのだ。 哀しいことにふたりには、父親を亡くして、わずかな希望が断たれたことも分かっている。渋谷区の土地を買い戻すには、並大抵の年収では足りないからだ。 だからこそ父の死はナオにとって衝撃であり、泣き崩れたのだろう。 その後の彼女の告白は、必ずしも真実とは限らない。彼女が「とめどなく吐き出した」のはすべて、父親への感謝の言葉だっただろうか? そのときジョジーが静かに聞いていたという一文は、何かを物語っているようでもある。 かつて住んでいた家の前に立ったナオは、「わたしはどこに行けばいいんですか?」と胸の内で問いかけている。私にはそれが、生まれ育った場所を離れ、下町にはいられず、故郷にも戻れない彼女の悲鳴に聞こえた。 私はひねくれ者である。 皆様にはぜひお読みいただいて、それぞれの解釈をしていただきたい。 出来れば、夢のある見方で。
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レビューありがとうございます。 催促してしまったー(笑) 松濤といえば、かつては200坪超えの豪邸が並んでいた土地でした。知人がおりまして、リアルごきげんようですから……。 おっしゃるとおり、「そこは幸せですか、わたしそこに住んでいたんですよ、住みたかったんです……」はナオの悲鳴であり、絶望なのです。帰りたかった家は永遠になくなり、家族はもとの姿に戻れないことをようやく目と心で確かめたのです。 弁護士になって稼いで今の家を売れば……って思っていたのですけれど、もうそこにはほかの人たちが住んでいる。 自分の帰るところはなくなったことを受け入れたからこそ、ナオの時間は前に進み始めた、というつもり
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