小池正浩

 では、春野さん、僕のほうのまとめを話しておきます。長くなりますが最後までお付き合いください。  情報過多、コミュニケーション過剰で性急すぎる世の中は、何でも時短でコスパのよいものばかり有益とされ、140文字以内で問題解決してくれるような説明が好まれる傾向にあります。その結果、  情報=解答  と無意識に思いこみ、勘違いし、調べることだけ癖づき、考えることを放棄した人が増えました。情報を知れば、解答を知れると。  情報は材料にすぎません、考えるための。かならず解読される必要性がある。たとえ情報=解答であったとしても、それは誰かが何かで記録した、他人の感じ方や考え方にすぎない。情報は情報、しかし生産、流通、消費される過程でまた情報は情報をとりこみ、メタ情報を再生産する。これは何もネットを介した情報のみの話ではありません。シンボリックな記号を操る人間の、人間社会の、普遍的な本質です。人間が人間であるかぎり、文化文明が誕生したはるかむかしから現在まで変わらず、口承が情報伝達の中心だった時代から文字、書物そしてマルチメディアにいたるまでずっと。  人はみずからが生でじかに見た聴いた触れたもの等々、知覚できた外界での体験がすべてというわけではありません。他者から伝えられる記憶、経験、知識などの、つまりは伝聞でも世界は構成されています。それがみんなのいう現実というもの、客観的事実というものです。  たとえば、文献資料は情報です。解答ではない。だから資料と資料をどれだけ大量の資料でつないでも、その間を、全体を、かならず解釈しなければならない。のみならず、根本的にその資料じたいをまず解釈しないといけない。それそのものだけで、真実性が保証されるものなどないのですから。  しかし、それが人間にとっては現実という認識を、客観的事実という感触を生むものです。疑おうとおもえば、いくらでも疑えます。信じることもできる。ウソかマコトか、どの程度ほんとうか。でも核心において人は、真実が存在するということじたいは動かしようもなく確信している。懐疑してはいない。そこはできない。というより、もとより伝聞という情報で人間の世界は成立しているのですから、信じるも信じないもありません、虚実あっても真偽が問われても、かならずどこかに真実というものがあるという実感だけは消せない。  つづきます。
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 よって、いまここで目の前にあってちょくせつ見も触れもする物質的なヒト・モノ・コトだけにかぎらず、言語や概念のように抽象的で記号化された情報というものも、人間にとってはひとしく実在しているものなのです。事物も情報もつまりは等価。これを換言すると、  情報=リアル  というふうにあらわせます。そしてここからが本題なのですが、人は誰しも物質的な世界だけでなく地続きで、抽象的な情報の世界でもリアルに生きているということ、それは原理的に、事実/真実/現実とデマや誤報やフェイクとを、容易には区別できないということを示唆します。峻別するのはむずかしい。もともと混在していて当然ですし、ほとんどの人にと
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 歴史というものは謎が多い。だからこそ解釈を頻繁に誘発する。歴史家は生涯この謎に魅せられた人たちでしょう。ときに作家もまた魅了され、歴史物を創作する。どのように解釈するかという自覚や方法に差異があるだけであって、そこにもちろん優劣もなければ、解釈そのものに本質的なちがいはありません。学問的に体系化し客観性を重視するか、多少リスキーでも想像力で補い膨らますか、そういったヴェクトルの差があるだけでどちらが絶対的に正しいということもない。作家も案外、というか本気でそうかもしれないと仮定しながら真面目に創作しています。それをつかまえて「歴史の解釈」にあたいしないなどと、頭ごなしに全否定することはない
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