よって、いまここで目の前にあってちょくせつ見も触れもする物質的なヒト・モノ・コトだけにかぎらず、言語や概念のように抽象的で記号化された情報というものも、人間にとってはひとしく実在しているものなのです。事物も情報もつまりは等価。これを換言すると、  情報=リアル  というふうにあらわせます。そしてここからが本題なのですが、人は誰しも物質的な世界だけでなく地続きで、抽象的な情報の世界でもリアルに生きているということ、それは原理的に、事実/真実/現実とデマや誤報やフェイクとを、容易には区別できないということを示唆します。峻別するのはむずかしい。もともと混在していて当然ですし、ほとんどの人にと
1件4件
 歴史というものは謎が多い。だからこそ解釈を頻繁に誘発する。歴史家は生涯この謎に魅せられた人たちでしょう。ときに作家もまた魅了され、歴史物を創作する。どのように解釈するかという自覚や方法に差異があるだけであって、そこにもちろん優劣もなければ、解釈そのものに本質的なちがいはありません。学問的に体系化し客観性を重視するか、多少リスキーでも想像力で補い膨らますか、そういったヴェクトルの差があるだけでどちらが絶対的に正しいということもない。作家も案外、というか本気でそうかもしれないと仮定しながら真面目に創作しています。それをつかまえて「歴史の解釈」にあたいしないなどと、頭ごなしに全否定することはない
1件
 ようするに、おたがい相手に仮想敵を見ていたのではないかと。春野さんは文面からしてあきらかに僕の論説に過剰反応しているというか、どこか攻撃的というか、一貫して否定的な印象ですし、僕は春野さんにどうにか自分の考えをわかってもらおうと必死です。これでは、いつまで経っても話が噛みあうわけがない。  でもそれも、ある意味しかたないかなともおもいます。というのは、春野さんと僕のおのおのの「妄想」と「歴史の解釈」にかんする認識や評価は結局、それぞれ根本的なところで一致しない可能性が高いようにおもわれるからです。  なぜかというとですね、僕はけっこう「妄想」に寛容なんです。どんなつまらないくだらないも
1件
 あらためて自分なりにまとめるとこうです。  春野さんも僕も、創作された作品に対しても歴史という学問に対しても、それぞれジャンルやレヴェルが異なるというだけで優劣はつけていない。しかし春野さんは調べることの重要性をとくに訴え、僕は考えることのほうをより重要視しています。春野さんは、ろくすっぽみずから調べもしないで「解釈」とはとうてい呼べないような「妄想」をひたすら垂れ流す人間に心底うんざりして。他方で僕は、そうした「妄想」が頻出することじたいは自然発生的な現象だからかまわないとして、問題はむしろ「解釈」をほとんどおこなわずに「解答」へ一目散に飛びつきやすくなっている現状にあり、「情報=解答
1件
この前の小池さんの返信で、私は二人共言い方が違うだけで、同じような地点には着地してると勝手に思ってますし、これに関してはそれで良いと思います(⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠) 今回のまとめを読ませて頂いて、アレ?また元に戻ってない?と(⁠•⁠‿⁠•⁠)は思いましたが 私は表面上の線引を言ってるだけで…… 多分突き詰めて語れば小池さんとそんなに意見は違わないと思ってます 私の言葉が足りないんでしょうね まあ、私もやおいはスルーしてますが、いいか悪いかでいうと……どうなんでしょうね 本来なら作者に断り入れて了解の上での二次創作ならオッケーじゃないかと思いますけど、アマながらそれでお金儲
1件

0/1000 文字