君ちゃん

 最近、情けは人の為ならず、自分の為であるという言葉をよく考える。  誰かの為に自分を犠牲にしてでも助けてあげたいと手を差し伸べてきた。  でもここ最近、その行いの為に結構敵を作ってしまった私は、酷い目に遭い続け、それでも!と思い、同じようにそんなことを続けるも、助けた相手にはそれほど感謝されてないように感じ始めている。  結局は助けたといっても、それは自己満足であり、その対価を相手に求めるのは違うと分かっていても、やはりどこか悲しくなる。  それならば自分を犠牲にしてまでやる事自体が間違っていると考え、そしてそれはその通りだと思った。  善意の押し付けで相手に何かを求めるのはいいが、返ってこなくて不満に思うのは違う。  そのどれもがそれぞれ個人の自由なのだから。 とそんな事を考えているとふと思う。  自分はいつから誰かの為に何かをしたい と思うようになったのだろうと、そして私は記憶を手繰り寄せ思い出す……あの日の事を。  あれはまだ私が小学校2年生の頃だった。  当時親の影響で柔道をやっていた自分は、力が強く、そして乱暴者。  故に友達も少なく、いつも放課後は近くの小学校で一人で遊んでいるような子供だ。  親に貰ったボールを壁に蹴って遊ぶ。  それが自分にとっての暇つぶし。  当時はそれが寂しい事とも思わない、いや、思っていたのだろうけど、そう思いたくなかったのかもしれない。  そんな小学校生活で、同じクラスに気に入らない男の子がいた。  名前は中出君。  彼は明るく、走るのも早く、サッカーも上手くてクラスの人気者。  でも自分より弱いと思っていた私は彼を目の敵のように思っていた。  いつかぶっ飛ばしてやろうってね。  なので中出君にとっても私は間違いなくいい印象では無かったと思う。  そんなある日、いつものように放課後一人でボールを蹴って遊んでいると、たまたま近くで中出君と田中君と羽鳥君が同じようにサッカーをして遊んでいるのが見えた。  遠目からそれを見ていた私は、それが羨ましく、できるなら一緒に入れて欲しいと思うも、普段の自分の態度やプライドから、声を掛けられるわけもなく、ただ眺めていた。 ※※※続く※※※
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 しかし、学校の校庭に他の同級生の女の子を始め、多くの子供が集まってそれぞれ遊び始めると、私はなんだか一人でいることが無性に恥ずかしくなってきた。  そして悩みに悩んだ末、勇気を振り絞って私は中出君達のところに向かい言った。 「一緒にいれーて」  この一言を口にするのにどれ程勇気が必要だっただろう。  断られたらと思うだけで怖くて、胸はずっとドキドキしていた。なんせ俺がそう言った相手は、別に仲が良い友達でもなければ、むしろ嫌われている相手である。  しかし予想外な事に、中出君は 「いいよ、一緒に遊ぼうぜ」 と言ってくれて、私の顔は多分パァっと明るくなっていただろう。だが、そうは問屋は卸さない。
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 その後、私はまるで中出君の子分のように懐いて彼と一緒にいた。クラスで一番力が強く乱暴者だった私は、まるで借りて来た猫のようにおとなしくなる。  すると周りも変わった。いや、私に対する周りの子の対応が変わったというのが正しい。  私もそれから人に対する思いやりというのを覚え、できる限り周りに優しく接するようになると、周りも私に優しくなったのだ。人に優しくすると自分も優しくしてもらえる。それを教えてくれた中出君には今でも感謝している。  そんな中出君は翌年、親の都合で転校してしまったが、今でもあの時の彼の言葉を忘れない。  それがあったから、今の自分がいるのだと思う。  そこで私はもう一度考え直

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