ドストエフスキー、とくにその後期長篇群を論じるにあたってバフチンの提起した、現在ではあまりにも有名な(はずであろう)術語概念「ポリフォニー(多声)性」がいかに小説にとって大切かというのはもはや説明するまでもないとおもう、おもうけどもドストエフスキー作品をたったの一冊も読んだことのない物書きや物語好きが増えたといわれてひさしく、いまどきそれもあたりまえということらしいから何ともいいがたいとこもあるのですが、僕はやっぱりすごく大切だとおもうし、昨今かしましい「ダイヴァーシティ(多様性)」という安直なキャッチフレーズの短絡的な理解と利用を破り覆し更新しなおすためにも重要なキーワードだとあらためて考えているので、一言でいって「他者性」を感じさせる他者がちゃんと作品内に出てくるかどうかってところに物語としての善し悪しがあると、評価がおおむね決まるといいたい──だけじゃなく、文学的な問題のみならず現実的に社会的な問題としてもすごく大切だと確信しているわけで、まあ小難しいそのへんのアイディアの発展や議論はまたの機会ということにして。
クラッシュ・イン・アントワープ、とうのむかしに解散したこのバンドのCDはもちろん以前からもっていたのですがようやくサブスク解禁されて手軽に好きなときにいつでも聴けるようになったぜうれしいぜってことで、とはいえメジャーの音源だけなので『さよならジェム・ストーン』などの名曲は聴けないのですが、ああやっぱいいよね『鈍色の星~nibiiro no star』とか『戦ぎの手紙』とか『ソング“ハロー”』とか『月とピストルと少年』とか、詞の独特の文学性もさることながら曲の音の塊感、唯一無二のグルーヴはほんとうにハンパない。ミュージックはね、歌だけじゃないのです。ロックバンドでいえば、ギターやベースやドラムやアーティストによってはキーボードやその他もろもろ楽器のアンサンブルでつくられているのです。たまには歌声ばかりに注目せず、ヴォーカル以外の音にも耳を傾けてみましょう。音楽がもっとたのしく、もっとゆたかになりますよ。小説にもそういうとこありますよね、表現のアンサンブル。ギタリストがその後、椿屋四重奏に加入して新たにまたちがったアプローチのプレイしたのにも、いろいろおもって聴くたびに僕は泣きたくなるほど感動しちゃいます。なかでも『不時着』は名曲中の名曲、名演です。
小池正浩