小池正浩

 ここです。ここが春野さんと僕の噛みあわない最大のポイントです。春野さんのおっしゃっていることは概ね理解できているとおもうのですが、そのうえでいわせてもらうと、春野さんはおそらく僕の説明を創作論や作家的な認識のみのことだと受けとられているのかと。  本題に移る前にこのコメント欄では先に、傍証というか例証というか、まさしく実証的にいくつか具体例をまた引用しておきます。といってこれはべつに、他人の言葉を利用して安易にすませようというわけではけっしてありませんので。むしろ前提的な確認作業にすぎません。  歴史学者の青木和夫は対談中、松本清張にはっきり述べています。「先生のお話の中で、基本的に賛成したいのは、物語とか伝説とかを無視されない点です。歴史は冷たい客観的な文献の中だけにあるわけではない。人間くささの中にある。いわば人間の歴史とは、人間自身の自覚の過程だといいかえてもいいと思うんです」と。あるいはこうも。「学者だって人間ですからつい思い込みがあります。思い込みがあるのじゃないかと反省しつづけていると、ノイローゼになります」  それに対して松本清張は「文学と歴史というのは、これはまったく機能が別だと思うんですが、ただ歴史は今、青木さんがおっしゃったように、文献を基礎に学者が実証的にやっておられる。われわれはその業績の上に乗っかって、簡単にいえば、そこから推理するわけです。いい言葉でいえば史眼でもって推理する。小説家の勝手気ままな空想や憶測ではないものにしたいのです。これが一見実証的な歴史から離れていくようだが、根や尾はそれから曳いている。そういう性質のものが歴史の文学方法と思います。わたしがいうのは、きちんとした文献上の実績を勉強して、そこから伸ばすというもんでなきゃいけないということです。そこから遊離したものならこれはまったく話になりません、空想小説になっちゃうから。そして、その歴史上の推理なるものが、万人が全部従うとはいえないまでも、そういうことをいわれてみると、そうも考えられるという合理性がなきゃいかん。その説にそれなりの説得性をもっているということが、文学におけるリアリティと通じるものがあると思うんです」と語る。  ね、春野さん。すべてまんまとまではいえないにしろ、春野さんと僕双方のいいぶんをまとめて代弁しているところありませんか。  つづきます。
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また曲解してたらすみません ここに書いてあることはザックリ同意です  歴史は資料の積み重ね、創作は無い部分を埋めてくみたいなことを前に書きましたが実は…… 歴史研究にも文学要素は「実際は」必要だと思ってます 数学的であったら、歴史の中に息づく人間は読みとけない 限界はありますよ 書状などは人間臭さが出てて面白いですよ 第六天魔王という名称が生まれた信玄と信長とのやり取りとか ↑ ここから伝わる、信長と信玄の笑えるキャラを笑うためには文学的な感覚が必要なんだと思います ↑ 脱線しましたね それと、歴史の専門家も人間なので、推理や推測 そうだったんだね、という感情として歴史に寄りそう気持
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 と、いまちょうど前文のつづきを書いていると、春野さんからご返答が届きました。  ああ、ならすみません、そういうことでしたら僕もほとんど同意見なので、この欄で書くことも書く必要性もこれ以上はなくなっちゃいました。しかし、いちおう述べておくとですね──。  青木和夫は松本清張の発言を受け、率直に自分の胸のうちを明かしています。「私も先生のお気持ちよくわかった気がするんです。先生は一番最初は鷗外から始めておられるけれど、鷗外の場合だったら「歴史其儘と歴史離れ」という随筆で、一番苦労した所をボシっと出した。松本先生の段階になりますと、歴史学者をつかまえて、歴史学者は文献の中だけで考えておるが(
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大体そうなので反論はないですが、あるとすれば、私はこの議論をそろそろ終わらせるように返信しているのでキリがなくなってしまうということで、他の欄でまとめて返信します
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