「架空の随筆」といった形で、ひそかに長編小説を書こうともくろんでいると、問題にぶちあたった。 純粋な思考の流れを文章の形にすればそれは美しい。ちょうど美しい和歌が、純粋な思考の流れを57577に整えたものであるのと同じように。この仮説が武器である。 ある一日の小説を書くのではなく、ある一日の小説について書く。 さらに言えば、ある小説を書くのではなく、ある小説についてを書くのだ。 バランスが難しい。 いくつもの思考をコラージュしているうちに、超難解な哲学小説になってしまった。僕は困らないが、読んだ人は困る。 さらさらっとわかるように完結しないものか。まるでここの短い「つぶやき」のように。
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鏡のむこうの世界こそが現実で、じぶんがいるこの世界の方こそが像にすぎないのではないだろうか。 だから影であるじぶんにはなにも責任がない。
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「もう空を見上げるな」と先生は言った。「空を見上げて、この広い宇宙に比べたら、自分の悩みなんて、とでも言っておけば深いことを言った気になれる。しかし必要以上に空を見上げるのはセンチメンタリズムに過ぎぬ。あるいはこの広い宇宙に逃避しているのかもしれぬ」  そう言われて前を向いたとき、私ははじめて先生の顔をちゃんと見た。首が少し痛んだ。
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書けそうになくてもいい。 とにかく書くのだ。 小説家、倉田百三(出家とその弟子)はスランプになり、森田療法を受けたときにそう言われて、とにかく書いた。  あとから思うと、その作品が気に入っていると、後に語っている。 僕はずっと神経質すぎたと思う。大作家のように見せかけようとして、大作家になれるわけではない。 現状をそのままだしていけばいい。
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「書く」とは、ここにないものを、新しく書くのか。 それとも、すでにあるものを、新しく書くのか。  後者は、創造と言うよりも、「記憶の、再解釈」と読んだ方が近い気がする。 前者は、なんと呼べばいいのか、よくわからない。というより、そんなことをはそもそも不可能な気がする。  つまり、「書く」とは、エンデの『はてしない物語』の画家のように、「記憶を発掘する」イメージが、わりと近いのかもしれない。わたしは、「創作」という言葉から、神様が天地創造するようなイメージを持っていたが、これを機に、ためしに考えを変えてみる。 また、「記憶」と言えば、ベルグソンの『物質と記憶』なんかを、読みたくなってきた。
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高速のエクリチュールということで、ジャック・ケルアックも、そうだったな、と思い出す。『オンザロード』の作者で、本はちょっとだけしかみてないが、映画で見た。 映画といえば、コッポラ監督の『ハメット』も、最後に主人公が、カタカタ文章を打ち、完成して、同時に映画もFINというようにする点で共通しているけれど、それに何か意味があるのだろうか。まあ、別にどっちでもいいが、ケルアックの場合、ものすごいスピードで書く映像が、やっぱりすごいなと、見とれてしまいましたね。 ジェイムズジョイスの『ユリシーズ』なんかが、その映画にちょっと出てきて、やっぱり意識の、輝きを失わせないために、高速で、意識と同じスピードで
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『火垂るの墓』の、野坂昭如はものすごいスピードでわざと書いたそうだし、それによって、文体も面白いことになってるのが、読んでもわかる。 しかしそれはどういうことなのか。つまり、思考というものは、つまりインスピレーションというものは、遅く書けば、書くほどその光を失ってしまうので、それを逃さないようにしているとしか思えないんだな。モーツァルトの例を挙げるまでもないけど、一発で書いた方が、確かに良さげである。 野坂はパソコン使えたんだろうか。多分手書きじゃないかな。今時、誰でもタイピングできるので、彼の方法をね、作為をね、借用しない手はないんじゃないかな。 つまり高速でかければ、それに越したことはない
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シャーロック・ホームズの前にオーギュスト・デュパンがいた。 ポーは、いきなり生み出せたのだろうか、この探偵を。 何か、過去の作品が、あったのではないか。 ハムレットでも、父親殺しの疑惑があって、それを探偵的に、明らかにしていく。 つまり、探偵という言葉はなくても、探偵的な思考の運動は、ポー以前にも存在していて、それに名前をつけただけではないか(ポーは探偵という言葉を使っていたか、使わなかったか、忘れたけれど。ホームズでは、すでに探偵になっている)。 しかしね、名前を与えることによって、もっと自由だったはずの「思考」が狭まってしまった、ということもあるのではないか。 名前をつけると便利だけど、そ
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コンピュータの発達で、もう実は誰でも「口述筆記」ができるですね。 しかしね、「口述筆記」で書かれたテクストにも、普通に書かれたテクストにも、私は愛着がある。 それで、どっちがいいんだろうという話になる。 ドストエフスキーは、『罪と罰』の後半を、口述筆記で書いたというのは有名だけれど、もう締め切りが近づいてて、半狂乱になって喋ったんだろうね。 一種の「イタコ」になっていたんじゃないかなあ。なんか、いいねえ。 もちろん、ドストエフスキーは普通にも書いている。 他にも、人が対談したものを、文章に起こしたのが、雑誌とかでよく見るやつだが。 対談は、対談しているその「場」に時間が流れていて、さっき僕がド
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思うのだけれど、小説って「書ける方がおかしい」ので、村上春樹のように「完璧な小説など存在しない」と言いながら、書けないということを、書き続けていくしかないのではないか。カフカの小説もそんな感じだ。
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数値変換による円環的テクストの間隙に見る倍音のアナクロニズム。
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私は書きたいことは何もない。 ただ何を書くにしても、言葉による覚せい剤を錬成したい。いや、副作用はないと思う。
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「私はストラヴィンスキーもバッハも愛する。故に、そのストーリーを美しいと思えた時、ストーリーは復権するだろう」
 ストーリーはストーリーではない。  私はこの否定の運動を敢えてストーリーと呼びたい。 「ストーリーは小説を遅延させるものである」(保坂和志) 「筋を書くな。それは事後的に生じるものだ」  悦楽。 「ご自由にどうぞ(不自由になるな!)」
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誰のために咲いたの それはあなたのためよ 夏の午後の日差しを浴びて こんなに咲いたの 白い夢を夢見て 開く一輪の花 今日も私もミルクを飲んで 吐いたひまわりの花
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長編が書けないタチだけど、短編がいっぱいあるので、組み合わせたら長編になるな。 ブラッドベリの『火星年代記』や、アンダソンの『ワインズバーグオハイオ』などはそんな長編。
なんだかんだスターうれしい。 送る側からすれば面倒くさいのかもしれないけど。 もしかしたらみんな楽しくスターを送り合っていて、僕だけが幼稚な考えをしているのかもしれない。 そうだとしたらうれしい。
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こんなことを言うと嫌われるのはわかっているけれど、僕は自然にいいと思ったものにいいねを押していきたいので、いいね返しみたいなことが苦しい。いい加減なんです。 しかし、いいねが増えて喜んでくれるなら、それもうれしいと思うので、時には押してみたりする。 だから、 「このさかしまとかいうやつは、いいねを押したり、押さなかったりして、けしからん」 と思われてしまっているかもしれない。 それはかなしい。 もやもやしながらやっています。 だからこれは読んですっきりするようなエッセイにならないな。 読んですっきりするってのは、事件がバーンと解決したりすることを言うんだろうな。 しかし「もやもやっと解決するミ
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まず夏すぎて病む
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混沌と混沌の間で本当の感情はコントロール不能なようだ。
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混沌と混沌の間で本当の感情はコントロール不能なようだ。
落語聞きながら「避暑星」というSF書いたら、もともと落語が身体にしみこんでないので文体が安定しなかった。  ちょっと悲しいメロドラマみたいなのは、いくらでも書ける、構造が同じだから。  しかし小説で人を笑わせるなんてことを考えたことはなかった。  新境地な分、今の僕は素人以下だ。  夏目漱石、太宰治、星新一。落語の文体は避けて通れない。
人を幸せにしたくて、小説はその手段に過ぎない、というのがベストなんじゃないかと思う。 自分の書いた小説を肴にして、時にはけなしながら面白おかしく語ることが、時には幸せな時間を生み出すこともある。 はなから小説を書かずに、ただ人を喜ばせる批評や感想を書くだけという態度もまた尊い。 そこでまた小説に帰ったとき、広い世界が開けているような気がするのだ。
ミステリとは、リアリズムのファンタジーだ。 それじゃ、SFとどう違うんですか? ファンタジーのリアリズムがSFだ。 ...ファミレスで耳にした会話。
『宝島』『ジキルとハイド』のスティーブンソンは、執筆に行き詰まると寝て、その夢に小説の続きがでて、それを書いた(笑) そこまではいかなくても、先日気になっていたことが朝起きたら整理されていた。 つまり、日常には二種類ある。 あとから物語を壊すか(田中小実昌の『ポロポロ』等)、最初から壊れているか(「らき☆すた」等)。 自分にしかわからない(?)メモはさておいて、行き詰まったときは寝るか、ストレッチするかした方が、結局は効率よさそうですね。
音楽の形式で書かれた作品がある。  レーモン・クノー『文体練習』、オルダス・ハクスリー『恋愛対位法』などはフーガである。 奇をてらっているのではなく、音楽が好きなら、そのように書く理由は十分であるように思う。 僕は最近、ミニマルミュージックを愛聴してる。 白状すれば、どうすればミニマルミュージックのように書けるか、考えているうちにわからなくなって、自家中毒を起こしているところなのだ。書きながら、頭を整理したいという次第。 ミステリに、「小さな事件」というジャンルがある。バラバラ殺人のような、ショッキングな事件などよりも、日常の些細な謎にせまっていく。アニメの『氷菓』とか好きだ。 これはミニマル
ある種の映画のチラシには、 「映像化不可能といわれた名作を映画化!」 みたいなことが書かれる。 太宰治は「女の決闘」は映像化できないと自分で言っている。ジョイスやウルフの作品などは、難しそうだ。 これらの作品に共通するのは「前衛性」で、物語自体よりもよりも語り口の面白さが重視されている。 昨日書いた『鑑賞』は、ライトノベルのつもりだが、それを「アニメのように読む」ことはできそうにない。 しかし、「アニメ化不可能なライトノベル」ってなかなか聞いたこともないし、この方向も面白そうである。 ところで、もしも無理矢理映像の世界に翻訳するとしたら、ジョイスの『フィネガンのお通夜』を日本ではじめて翻訳した
 物語の構造を抽出して、方程式のようにそれに小説の要素を当てはめれば、それでいくらでも書ける...という構造主義的?な見方には懐疑的である。  童話や神話ならそれでいいかもしれない。  しかし、児童文学になってくると、素朴な童話性をはらみながら、すでに反物語性が顔を出す(エンデ『はてしない物語』など)。  「物語の構造」は、抽出された時点で、それはもうクリシェ(決まり文句、月並みな言葉)のようなものである。  奇をてらうなり、あえてクリシェを強調するなり、そこからの脱出法に作家それぞれの個性があるとして、要するに「書く=生きる」を成立させるためには、そんなものは踏んづけていかなければならない。
 バルザックの短編のタイトルに「知られざる傑作」がある。  僕は、 「小説について、あれこれ考えるくせに、なかなか書かない」  という癖がある。それで書かれなかったものが、「知られざる傑作」だとしたら、うれしいような、悔しいような気がする。  いずれにせよ、こういう「自分の掘り下げ」が小説のタネになりやすい。
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 ネット小説が好きだ。  紙の本がいいという人がいる。  しかし紙の本がいいのと同じぐらい、電子の世界もいいと思うのだ。   ネット小説は、なんといってもその軽さが魅力だろう。 「紙がもったいない」という意識がないためか、ここから小説の世界はだいぶ変わったように思う。  小説は、重ければそれでありがたい、というものじゃないのである。  重たいゴミだってあるのだ。  そしてここには軽いダイヤモンドがある。  以上は、中絶した小説の断片なんですw  「随筆体小説」というか、なんだって小説になるとは思いますが、ちょっとノらなかった。  随筆というか、つぶやきとして晒します。  ちょっとでも晒した方
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