つぶやき一覧

なんであれ、無理をするのは、踏み絵を踏まないようなものだ
「ほぐすことのできない単語に矛盾する形容詞を付けてみると、脳の一部がほぐれる感覚がある」 ーー多和田葉子『言葉と歩く日記』より 安楽死は、「苦しい安楽死」になる。 わざわざ「安楽」なんて言ってる時点で、逆に言えば、すでにめちゃくちゃ苦しい状況があったのか(病気自体の苦しさとは別の)。
デカルトの 「我思うゆえに我あり」 はニーチェの 「君の小さな理性は身体の道具にすぎない」 のようだ、とふと思った。 議論なんて、無限に続く。 しかし議論しているわたしの身体は有限で、腹が減る。 だから議論は捨てて食う。 ちょっと議論もする。 どちらも、そんなことを言ってる気がした。
ニーチェは、 「君のその小さな理性は身体の道具である」 ネット空間も実は身体の道具だった、とした場合、それを媒介して、遠い相手の温もりにシンクロする、という可能性が開ける。 ところで匿名とは何か。 外を散歩していて、知らない人に声をかけられる(時に刺される)。 デタラメを言っている。
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哲学者のアクロバティックな文章。 わかるように書いてはいけない、なぜなら、その結果が今だから。 だけど書かなければならない。 そこで、「絶対にわからない」ように書く。それしかない。そこが、伝わる人には伝わる。 無責任にだらだら書くネットの記事作成者は哲学書や小説の分厚さを知らない。
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断片「ある相談所」 どんな悩みでも聞いてくれる場所があるという。この人と結婚すべきかどうかとか。ある人が、お金を払ってその部屋に入る。すると誰もいない。そればかりか、なんにもない部屋だった。ただ、次のような張り紙が壁に1枚、貼られているだけだ。 「AとBが与えられたとする。AとBは対立している関係だ。ところがそもそも対立とは同じ前提を共有しているものたちの間でしか成り立たない。その前提をCとする。Cの観点に立った上で、AかBかを「好きに」選んでよい。すでに対立は解消している。善いか悪いか以前の好きか嫌いかの次元に帰ってこられたのだから」 それでも晴れやかな顔で相談者はその部屋を出た。
『村上春樹の物語 夢テキストとして読み解く』 『村上春樹 イエローページ』 『もう一度村上春樹にご用心』 三大春樹論。そして本文に帰る。これで生きれる。
コロナ対策って、実際に有効なレベルと、おまじない、つまりエンタメに過ぎないレベルとがごっちゃになってるから、呆れてしまう。 だって、それで苦しんだ人が増えても、なかったことにさせられる。エンタメだら、面白い方がいいものね。 縄文時代からずっとこれだから、わかった上で動くよりないが。
たとえば 「どうすれば眠れるのだろう」 というまっとうな思考がすでに冴えている。 眠りながら書かれた小説「溶ける魚」を読んだ方がいい。 気分転換とは「思いを変える」と言うより「思い方を変える」ことだとも言えそうだ。 そのための読書...「マントラ」みたいな発想になってヤバい感じだが。
「嬉々として論破という言葉を使う時点で、あなたがしているのは議論ではない。相手を言い負かしさえすればいいのなら、正しいか、正しくないかという視点はどこかに行ってしまっているではないか。はい論破!」
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謎のきもちわるいポエムを投下! 葉が落ち始め 窓を撫でる 赤く輝いて きみの顔 海の音 日焼けした腕で 抱き合う それからきみはどっか行った 忘れても知らないぞ そしてすぐ冬の歌があふれてくる でももう帰ってこないんだよやっぱり 葉が落ちていく
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覚書  とは言え... 山ほど読書したり たくさん書いたりして 修行しなくては いい小説が書けないようなら とうの昔に 文学というジャンルは消滅していた 極論 ドストエフスキーはドストエフスキーを カフカはカフカを読んで勉強してないのである ただ何も知らなくても 楽しんで書けさえすれば それで十分なんだ
覚書 フランスの映画監督のジャン=リュック・ゴダールは、代表作『気狂いピエロ』を作っていた時、パニックに陥っていたという。 それは、何を撮ればいいかわからないから、ではなかった。 むしろ、なんでも撮れる、という、かなり恵まれた状態にいたからこそ、かえって何を撮ればいいかわからなくなっていたのだ。 そこでゴダールは、「何も撮らない」ようにした。 そして、そのまっさらな状態で、それでも撮る必要が、どうしてもありそうなものだけを撮った。 思えば、「一回あえて何もしないことにする」は、どのジャンルでもスランプ撃退法の秘訣ではないだろうか。 イギリスの小説家ジェイムズ・ジョイスは、その弟子であるサ
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将棋で言えば、相手を詰ますという目的があるので、難しい理論はいらない。その目的というか、将棋の意志というか、神様に従っていればよくて、それが一番上手くできる人が強い。 ところで小説では、なにが目的になるのだろうか。 読者を感動させること? それはそうだけど、わたしが聞きたいのはそういうことではない。 将棋だって、ものすごい一手を見たときは感動することができる。 そのものすごい一手は、さっき言った、将棋の意志のようなものに従順するところから湧き出てくる。 だけれど将棋の目的が、見た人を感動させることというより、相手の玉を詰ますことで、それを小説に置きかえればどうなのだと聞きたいのだ。 推理小説
やぎさんに村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を与えたら、読まずに食べてしまうだろう。 お腹すいてる人に 「小説を読め」 なんて言えないなあ。 スパゲッティ食べながら読むのがいいね。 小説って、それぐらいのもんだと思う。 それが大事なんだ。
自信がつく方法 有名な小説(アンデルセン童話集とか)の、作者名のところに、自分の名前、あるいはペンネームが書かれたシールを貼って、しばしば眺める。 「これは自分が書いたんだ~」と思いながら。
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「バリエーションズ」デヴィッド・リンチのイメージによる 牛肉パックから 血が注がれる デスマスクに 生き返り 継ぎはぎだらけの フランケンシュタイン 仲間はずれの 教室 血に染まる 牛乳業者 やってきて 牛乳パックを作る 報酬が 支払われて 奪われる フランケンシュタイン 自らを 分解する これは たんなる バラバラ遺体 探偵 犯人を捕まえる 犯人は蝋のように溶ける 溶けたものは 地獄に流れ 湯気は天国にまで 探偵 途方に暮れて   日も暮れて 牛乳パックを 開けて 白い牛乳を注いだ
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景色を見ながら、景色に見られている。 景色が目を閉じる。 私には何も見えなくなる。 泉が出て行く。心の中から、永遠に、だから私は二度とそれを思うことができない。 それを思うことが。 それ? それとはなんのことだろう。 ところでロバが道を歩いている。 一体どうしたのだろう、とわたしはのんきだ。他の人たちに比べると。スカートを食べられて悲鳴をあげる女、恐る恐る近づいて、ロバが動くと急にびっくりして逃げていく子供、パトカーも来た。 一体このロバはなんなのか。 ロバは暴れはじめる。 そのとき、泉が戻ってきた。 ロバを沈めて、消滅した。
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星間飛行。 宇宙に、星に飲み込まれていく女がいて、その星の時間の流れ方がゆっくりであるため、いつまでもいつまでも苦しみ続けるように見える。 しかしその女からしてみれば、一瞬のできごとかもしれない。 地球人は、結局生きている間でさえ、地球の土くれにすぎないだろう。 よく占いで、火星人とか、天王星人とか言われる。 あなたは地球人だと言われたら、そういう占いの一貫なのか、それともそのままの意味なのか、迷ってしまう。 冥王星が太陽系から外されたとき、寂しい気分になったのを覚えている。 それを、星は精神に影響を与えると言っていいのなら、占いは信じられるし、同時になんでもないことだと知る。  
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小説とは何か。と、問い続けることだけが小説たり得る。ベルグソンはうまいことを言った。「うまく問うことができれば、それが答えだ」と。というと、僕がまるで哲学に詳しいみたいに見えるかもしれないが、小林秀雄の受け売り。というと、僕が小林秀雄に精通しているようにも見えるかもしれないが、それも単なるスノビズムだ。 それで、今や言葉を信用することはできない。言葉とは何か。と、それを問い続ける言葉しか使うことはできない。普段の生活は別として。いや、普段の生活でもそれをやることが、本当に生きることかもしれないが(なかなかそうもいかない)。 こんな不安感はカフカから始まった。カフカ以前から、人はカフカのように不
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ものすごい小説を書き上げて目が覚めた
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わざわざ小説論的なつぶやきをするのは、自信がないからで、別にそれでうまく書けるようになるかは関係がないと思い始めた。 おっかなびっくり書いて、おっかなびっくり完成し、そうやって行くうちに自信がつけばそれでいいのではないか。 小説論にはエッセイぐらいの価値と意味しかない。
子供が 悪い大人を批判するタイプの児童文学も 考えてみると大人が書いているわけで その辺は非常にアイロニカルである 批判しなければ アリスのようなナンセンスになるが その世界から大人は永遠に切り離されているがゆえに 批判以上に大打撃なのだと思うなどした
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小説において必要なのは論理ではなくパッションだろう。 もし論理で話がすむのなら、哲学でおいおい泣くがいい。 いかにしてパッションを獲得するか。 わたしがりんごについて書くとする。 わたしがりんごが嫌いなら、そのテクストはたちまちりんごに対する呪詛となるだろう。 そのような意味でなら、わたしはすでにパッションを持っている。  それに気づくだけでいい。 そこからいろいろなことが言える。 わたしがりんごで泣けないなら、りんごで泣かそうと思うな。 正直になるしかない。 人は正直に書いた方が幸福である。 それによって書きたいことが書けなくなるということはない。なぜなら、もしそれで書けなくなったとし
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フランスの作家レーモン・ルーセルは、二つの、音はほとんど同じだが、意味は全く異なる文を作り、その間を補う……というプロセデ(手法)によって、いくつかの短編を書いている。  数少ないルーセル愛好者たちが共通して言うのは、 「ルーセルの小説は音楽だ」  ということだ。   『アフリカの印象』の、いくつかの奇想が登場する世界は、日常の時間の流れ方をしていて、音楽で言えば、ストラヴィンスキーの『春の祭典』とかに近いんじゃないだろうか。 もし、ルーセルが自閉症でなかったら? つまり、プロセデという「独身機械」の中に閉じこもることをしなかったとすれば、やはり彼の『春の祭典』を書いていたはずで、その代わ
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書くというより生きるという感じ 話が脱線する時、わたしは生きている気がする 「混沌を混沌のまま書くのが小説だ」by高橋源一郎 書きたいことを書く時、生きている感じがする 都合のいいフィクションに対して、 「そんなのありえねー!」 というツッコミを入れたい気持ちと、 「ありえないからこそ書く必要があるだろ」 と賞賛したい気持ちとがある それもまた「混沌」だから、そのまま書けばいいのかな
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わたしの小説なんか大したことじゃないんだ わたしがどんな人間かだけが問題だ そしてわたしは立派な人間でもなんでもない だいたい、人のために生きるってなんだよ それがわからない どれだけ自己満足の面白い小説が書けても、その間に本当に苦しんでいる人のために、なにかした方がよっぽどましなんじゃないか でも同時に、そんなおせっかいな生き方は「異常」みたいな感覚もどこかにあって 倫理観みたいなものがわたしには欠けているんだと思う なんかメンヘラみたいなつぶやきだけど メンヘラだろうがなんだろうが関係ないよ 真実のメンヘラはわたしなんかより人生にぶちあたっているよ
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「小説殺人事件」 生きていさえすれば 誰でも何かを感じることができるので あとはそれを小説の形式に 落とし込みさえすればいいはずだ(生きてるってすごい) つまり小説というものは 自力で生み出そうとしなくても すでに「今、ここ」にあるのだから それを殺さなければいい 書けない時は大抵何かにとらわれていて 小説を殺してしまっているだけだ ワトソンくん それが『小説殺人事件』の犯人だったんだ
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そして、私小説のライトノベルってありえるのか考えてみたけど、 マンガ家の浅野いにおがいる時点で可能だし、 ジブリ作品には純文学のアニメ化が多いから豊かな可能性も孕んでいると見える。
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「随筆体小説」についてずっとぐるぐる考えてきたけど、もう普通に私小説書けばいいんだとw なんのことはない。 丸谷才一の私小説批判、村上春樹、村上龍のSF的純文学。 もう私小説はありえない気がしていたが、1周回って、いいんじゃないかと。 なんのことはない。読書して勉強します。
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