春野わか

➀ 〉「私が嫌うのは創作は創作 歴史は歴史という話し」──では、歴史ものの創作物── 創作のぜったいない歴史というものを具体的に教えてください。 そんなものは無いので知りません  創作は創作、歴史は歴史を私がどう切り分けてるかについては前にも述べてます 設定と解釈 少なくとも資料があるかどうか(資料に幾つも状況証拠なるものがある)、客観性を保つべきを歴史、創作は主観的な見方、資料になくても可と述べてます 〉または創作の混じった歴史は存在しないということでしょうか。 「歴史」と言える資料の中にも創作は存在します しますが、皆亡くなってるからそれが絶対に創作で有る、とは言えないはずですが、厳密には一次資料以外は切り捨てられるくらいの勢いがありますね←専門家の間ではね なぜ、そこまで厳密にならざるを得ないのか、という理由も理解できなくはないです 状況証拠の積み重ねでも、私は所詮は作家側の人間なのでオッケーですが歴史学ではNGかも 歴史学で求められるのは状況証拠の積み重ねではなく一次資料の積み重ねです 〉もし存在するのなら、その歴史もの作品で読む観る鑑賞するにあたいする創作物を── 私が知る限り、無いと思いますよ 〉歴史がたしかめようもないなどと一言もそんなセリフを僕は述べていません。一度でもいいので読み返して確認してください。 確認しました 「歴史がたしかめようもないなどと一言もそんなセリフを僕は述べていません」とは仰ってはいませんが ↓ 「というのは、たしかに中世って古代よりはなんやかんやと資料はあるものの、それでも現代ほど豊富でも「実証可能というわけでもないじゃないですか。つまり、どんなに正確を期す慎重な歴史家や研究者であろうと、どうしてもその空白を想像や推測で埋めなければならない。くわえて、一次資料だとはいえそれじたい不完全だったり不正確だったりするわけで、根本的に立証がむずかしい、というか原理的に確定できないことばかりですよね。」  ➁につづく 
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 わかりました。「歴史がたしかめようもない」にかんする件以外は、あらかた齟齬は解消したのではないかとおもいます。  そういえば、シバリョーにくわえ清張さんも話題に出てきたことですし、せっかくですので五ヶ月ほど前に読んだふたりの対談で、ふたりの考え方や価値観のちがいがとくにあらわれていて興味深かった会話の一部分を少し長めになりますが抜粋しておきます。  最後に司馬遼太郎から「ぼくはしろうとだから、あくまでも古代のことをいうときには自分の言うことはすべて幻想だと思っています。今日お話ししたことも、松本さんはわざわざ私にあなたの説ではといってくださる。光栄あることばを使ってくださったけれども、
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幻想ですと言い切るところに作家魂を感じます この潔さが素敵です 作家たるもの堂々と幻想、妄想と暴露して暴れたいものです 〉清張さんは「実証のない学問、自分に都合のいい理屈で学問をゆがめる、あるいは実証を歪曲した」と、シバリョーは「しろうとがいうならば別ですが、学問で飯食っている人たちはもうちょっとゆっくりしてもらいたい。ゆっくりするというか、慎重であってもらいたいですね」と。 まさにここなんですよ 私が実証のない〜みたいなことを言いたくないのは 小池さんが仰る実証が難しい云々と、歪めたい人間とでは同じセリフでも根本的に違いますからね 歪めたい人間には主観しかなく、実証がないという理屈を
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